改題第6号(通巻第84号) 読者からの手紙

今こそ文化防衛を

 一年程前に、学校でとても興味深い話があり、いまでも記憶にある。話題は学校教育に於いて、必要の無い科目はなにかという陳腐なものだが、その話題を教師が振ってきたのだ。その教師曰く、「一番必要ない教科は古典だと思う」とのこと。その訳は「古典から得るものは無い」。
 かの西部先生がどこかで「歴史から学び、教訓を実際に活かすことのできる機会は少ないから、歴史を学ぶことは物語を知るだけのこと」というような趣旨のことを仰っていたが、この教師はそのような皮肉とユーモアを込めて言った訳では無さそうだった。
 当時の私は教師のこの発言に激しい違和感を覚えたが、その理由は「古典は文化そのものである」ということである。古典という科目は基本こそ文学だが、文学それ自体が民俗と大きく関わっているため、まさに古典こそ民衆を支え、文化の基礎(上部構造の中での下部構造といえる重要なもの)であるといえる。
 古典は過去の人々がどのように生きたかを示し、現在と未来の人々の生きる指針になりうる。これを無視して、古典は必要ないというのは、とにかく何でもにわか作りの間違った理論を信奉する「新自由主義」なのではないか、と思う。
 私は三島由紀夫の作品に関して文化防衛論しか読んだことの無い初心者だが、あの作品では共産主義などの反文化主義(三島のいう「偏った文化主義」、「逆文化主義」などのこと)からの防衛が謳われている。
 ただ、三島は反文化主義について共産主義だけでなく、当時の一般民衆に対してもそのような風潮があると考えていたのではないか。
 私が思うに、現代では共産主義者に限らず、広く一般民衆に於いても反文化主義が蔓延している。そしてそれは文化を積極的に破壊するのではなく、無視して静かに破壊していく。静かである分気づきにくく、危険である。
 前述の話題に対し、実は私のクラスでは教師の主張への賛同者が多かった。しかしなぜそのような物の道理も分からぬ者が生まれたのかといえば、教育にも責任の一端があると思わざるを得ない。
 近年の教養軽視、実学重視の教育によって文化・芸術科目の軽視が生じ、私の周辺には「国語より英語」「芸術科目はいらない」という者もいる。またたとえ文系であっても社会や国語を表面的にしか学ぼうとせず、試験にしか対応できない者も多い。心が貧しいのである。
 そのような者とは大抵の場合、面白い(interesting)話ができない。しかもそれは圧倒的多数派なのである。教師もそれでよしとする。
 新自由主義により社会と教育の制度が短期的な、目に見える成果しか求めないように歪められ、教師と学生はそれに対応するため歪んだ人間になる。その結果全ての人が歪んでいく。
 よって反文化主義からの防衛こそ、今必要な文化防衛であり、広義での「防災」ではないか。
 今や反文化主義は新自由主義とほぼ一体となり膨張を続け、社会のあらゆる階層の人間に浸透している。
 人々が緊縮財政など新自由主義的政策の多くを積極的に支持する以上に、人々自らが反文化主義を(おそらく彼らも無意識の内に)推進している。財政が政治という、現代人が遠く感じてしまうものであるのと対照的に、文化は身近な生活に根付いているからだ。
 どうすれば文化の重要さを理解してもらえるか、私にはわからない。弱気かもしれないが、これについては現在の良識ある大人に期待するしか、私には他に方法がないのである。

投稿者 : 

  • 實山由斗(東京都、17歳、高校生)

TAG : 

CATEGORY : 

メルマガ最新記事

啓文社書房/株式会社啓文社

本社
〒160-0022 
東京都新宿区新宿1-29-14 
パレドール新宿7階
TEL
03-6709-8872
FAX
03-6709-8873