情景

福谷啓太(28歳,会社員,兵庫県)

 

 最近、観光地のあちらこちらで目にするのは中国人観光客ということもあるのだが、それよりも気になるのは国籍問わず、スマホのカメラでパシャパシャしている異様な人々の姿である。そういえば北海道旅行に行った際、連れの希望でクラーク像を見に行ったのだが、そこも異様であった。観光客はクラーク像と一緒に写真を撮ろうと列を作って順番待ちにしており、写真を撮ればそそくさと退却して効率的ではあるのだが、まるでクラークの指差す方向には目もくれていない。クラークのことはよく知らないものの、気の毒だと思ったものである。

 かくいう筆者もスマホのカメラを多用していた時期があったのだが、ある出来事をきっかけに控えるようになった。それは震災から三年後にして初めて、南三陸町を旅行していたときのことである。十メートル級の盛土がそれを避けるように、かつての爪痕を保存し続けていた防災庁舎は、ネットでの写真や動画で見ていた姿とはまるで違う威圧感を呈していた。錆、傷み、ねじれた鉄の梁、ぶち切れた電線に剥き出しの空調配管、風に伴って軋む不快な音、不快な寒さ、不快な土埃、それら目や耳、肌で感じた現場の経験が想像をさらに掻き立たせたのである。そのとき、写真に収めればそれで良しとしていた自分を情けないと思ったものだった。

 思い出としての記憶というものは、良いものであればあるほどそれを忘れたくない、そのままに残したいと人間は思いがちである。だから現代人はスマホを取り出し、撮影を始める。写真にして残せば、後から見返してあのときのことが甦ると、それが良いと考えている。だがその行為が経験をただの撮影という行為に変え、良き思い出となるべきものがただの記録に堕してしまっているのではないか。だからその写真を見返しても、年表を読み返すような味気無い感想にしかならず、指でどんどんスライドして次の写真に移るという流れ作業のような思い出し方しかできなくなってしまう。

 現代人がこれから欠いていくのは円熟という実感ではないだろうか。記憶が薄れるのも、記憶が変質するのも、そのことでようやく自分が歳を取ったと実感する貴重な要素なのである。あのときの感動が今思うと気恥ずかしいことも、まるで変わらず自信となることもあるだろう。そのように過去と現在の照合不照合を確認することで、未来への正統で堅実な一歩が可能となるのではないか。

 そんな経験を、自然の風景や歴史的建造物という例を取っても、まるで積み重ねていない現代人は、いつまでも年老いることはない。見た目だけ老けこいて、醜い駄々をこねるだけ、そんな人々がこれからさらに多くなっていく、と考えるのは大袈裟だろうか。続けて言えば、視覚以外の感覚と想像力を以て経験する ことを蔑ろにし、そして今や視覚でさえもレンズ越しにしか物を見ない現代人が、凡そ文化的発展を続けることは不可能に違いないのである。

 現代も既にひどいのかもしれないが、これ以上にひどい時代がこれから来てもおかしくはない。それをできるだけ抑えるためにも、今回の一例のように、まずは身近なことから論じ、自他の認識を深めていくことが必要だと思われる。