4月29日、「第4回信州学習会」が盛況のうちに開催されました。いままでの信州学習会で最大の「30名」を超える方々にご参加いただき、緊張感を感じながらも活気のある学びの場を共有することができました。
第1部 講義「軍事について考える前に知っておきたいこと」
「第1部」の、小幡先生の講義「軍事について考える前に知っておきたいこと」では、まず小幡先生の自己紹介として、起床ラッパで起きるのが習慣となっていたことなど自衛隊時代のエピソードが語られました。
次いで本編では、近年の日本人の「軍事」に関する態度から、
①ウクライナでの戦争行為に見られた、熱しやすく冷めやすい態度から、真剣に軍事について考えていないこと。
②「ジャベリン(戦車を破壊できる小型ミサイル)」の有効性を騒ぎ立てたが、やはり、戦車が必要であったという帰結しかもたらさなかった無意味な議論。
③防衛費を増額しても、憲法改正しても、そもそも自衛隊自体が戦う体制ができていないという内実。
④中国軍との戦闘において死者が出る可能性が明らかになったにも関わらず、慰霊をしない国家の体制。他人の「生命と財産を守る」という目的のためには、誰も命を懸けないという当たり前の事実。
といった話題が取り上げられ、現在の日本及び日本人の軍事に向き合う態度が批判されました。
しかし、具体的に戦う主体である「軍人という存在」について考えると、それは私たちと同じ、「国民の誰かが命を投げ出して戦う」ということであり、詰まるところ、「日本国民に戦う覚悟があるか」という決定的な問いかけであり、それは「自分自身に戦う覚悟があるか」という問いが突き付けられるとこであると話され、そこを喝破した、
結局は国民的戦闘精神と、自己犠牲意思とがすべてを決するであろう(マライ軍インド第三司令官英国陸軍中将ヒース)。
との言葉も引かれました。
しかし、省みると「日本人は戦う精神・覚悟」を失っていると言わざるを得ないわけです。そこから、「何故日本人が戦う覚悟をなくしてしまったのか」という議題に入っていき、それは、敗戦という「失敗」をトコトン反省せずに、新しい戦後の「理想(平和主義、民主主義、経済成長、日米安保など)」に乗り換えてしまったこと。その結果として、「歴史」を忘却してしまったことに最大の原因があると指摘されました。
また、敗戦を迎えた当時の一軍人の、
「戦争を忌避しながらも、その戦争に突入させたもの。そのために世界が平和になるならば、日本は戦争に負けてもよいと思いながらも、やはり、戦わないでいられなかったぎりぎり一杯のものが、去勢されたように、いつしか失われた。(清水寥人『レムパン島』)」
との言葉に表れた喪失感や、戦う意思の具体的な表れである「武器」を持たないと決めたことで、戦う意思そのものが同時に放棄されてしてしまったことが語られました。
最後に、「生だけを最高の善」とする生命至上主義によって、何を守るために戦うのかという問いそのものが、完全に忘却されてしまったことが指摘され、逆に「日本人が戦う覚悟を持つこと」こそが、何より大切であることが参加者それぞれに刻まれた講演となりました。
「第2部」の小幡先生と浜崎先生のディスカッションでは、第1部の議論を出発点として、様々なことが語られました。その中から、いくつか拾うことで議論のあらましを読み取っていただければと思います。
・人は何によって支えられ戦うことができるのか、という根源的な問いが戦後忘れられてしまった。その結果、ひたすら「卑しく」生き延びざるを得ない存在になる他なくなっている。
・危機に接して、自分の生き方を確かめる、その往復運動を行うことが重要である。例えばコロナ問題もその一つであり、自分の思考や振る舞いを反省する材料にすることができる。
・政治的な課題には、明確な「処方箋」が提示されている。しかし、問題はそれがどうして実現されないかであり、それは、日本人が頭では分かっていることを「行動」に移したがらない「理性」を軽んじる体質にある。
・前近代日本人は「武士道精神」という形で、自分が戦いにおいて死ぬこと、また命令によって人を死に追いやる責任を引き受けることができる思想を持っていたのではいか。
・軍事に関する不備の根底には、日本人論があり、長期的な目線で日本人の体質を改善していくべきである。それは、日本近代150年の歴史の延長線上において、議論を積み重ね成熟していく過程でもある
・軍事について考える場合も、「政治(99匹)と文学(1匹)」の葛藤の問題があり、99匹から零れ落ちる1匹の孤独を乗り越える、「宗教性」(または、歴史、自然、言葉)と接続されることで、敵と味方を分ける、政治におけるギリギリの決断を行う根拠と、一匹が救いとられる拠り所が与えられる。そこにたどり付かなければ、その葛藤から逃れることができない。
・最後に、そのような「宗教性」の獲得は、「一人一人」によって行われるほかなく、いかに遠回りであっても、一人の人間が変わることの可能性を信じて、周囲との関係を保ち、対話や言論活動を行っていくことが最も重要なことであり、例えば、藤井聡先生が主な活躍をしたことで「都構想」が止まったように、一人の人間の力を低く見積もることはできない。
以上は私が書き留めたことですが、それ以上に豊富な内容が語られ、お二人の先生の活発なディスカッションを通じて、日本が軍事における不備を改善していくためには、非常に困難なことではあるが、一人一人の国民が、利害(99匹)と孤独(1匹)を乗り越えた宗教性を含めた「日本人としての生き方」を取り戻し、それを守るために「戦う覚悟」を固めること、そしてそれが実現する可能性を信じる人間の真摯な言論にこそ希望があることが結論されました。
その後の質疑応答でも、1部と2部で語られたことに関する感想やご意見、また大川周明に関する評価などなど時間一杯活発な議論が展開されました。
その後の懇親会にも、多くの方々にご参加いただき、講師と参加者、また参加者同士、議論や社交を存分に行うことができる時間を持つことができました。
今回の、「第4回信州学習会」は、2021年に行った「信州松本シンポジウム」から、通算5回目の信州支部としての企画でした。企画を重ねるたびに、少しずつ信州支部に関わるメンバーの結束と、講師の先生方との関係も深まり、何より参加していただける人数も増え、徐々に手ごたえを感じてきています。
今後も非常に遠回りではありますが、思想的な立場から「一人一人が変わる可能性」を信じ、今回のような学習会を開催するのはもちろん、信州支部から発信する言論活動によってその可能性を幾分なりとも広げる活動を長野県にて展開していきます。
今後も信州支部の動向にご注目いただくともに、ご支援ご協力のほどよろしくお願いいたします。
表現者塾信州支部 支部長
前田一樹