【寄稿】魔王の遺告

前田健太郎(49歳・東京都)

 

◎神霊とつながる儀式

 

 北一輝に「魔王」と異名を付けたのは大川周明であるが、その理由について大川はのちにこう振り返っている。

 

一言で尽せば北君は普通の人間の言動を律する規範を超越して居た。是非善悪の物さしなどは、母親の胎内に置去りにして来たやうに思はれた。〔中略〕誰かを説得しやうと思へば、口から出放題に話を始め〔中略〕やがて苦もなく相手を手玉に取る。口下手な私は、つくづく北君の話術に感嘆し、「世間に神憑りはあるが、君のは魔憑りとでも言ふものだらう」と言つた。そして後には北君を魔王と呼ぶことにした。(「北一輝君を憶ふ」)

 

 北自身この大仰で尊大な呼び名を気に入っていたようで、二・二六事件の黒幕と断ぜられて銃殺刑に処される直前、「大魔王観音」と大書した巻紙を名付け親の大川に遺した。

 この二人の天才が共に革命の必要性を説きながら、その関係が極めて早い段階で決裂するのは、北の「義理人情に拘泥して革命ができるか」との主張に対して、大川は「革命は義理人情を回復するためにやる」という目的と手段の倒錯以上に、道徳観というものの解釈の難しさを我々に教えてくれる。

 

 たしかに北のヤリ口の際どさは、道義心と社会正義を掲げた革命家や国家主義運動家の顔の一方で、恐喝屋、事件屋、ユスリ屋として、政財界から容赦なく金を巻き上げるため、門下生の西田税と共に「革命ブローカー」などと揶揄されたことでも明らかであった。まさしく大川の評したとおり「魔憑(がか)り」じみていたわけだが、それ以上にこの昭和維新のカリスマは「神憑り」の人物としても当時ずいぶん有名だった。

 神がかり――ここでは霊能力のことを指す。それは北自身だけでなく、妻のすず子もまた神仏と交信ができるという異能者で、夫婦二人して日々怪しげな儀式めいた行為に熱中していた。

 

 北は毎朝、自宅の「神仏壇」と呼ばれる祭壇に向かって『法華経』の誦経を日課としており、その唱える経の調子が昂まってゆくと、並んで座したすず子がトランス状態となって、踊るような動きをしながら何か謎の言葉を発したという。それを神霊よりのお告げとして北が解読し書き留めてゆくのである。

 そこには自身や同志、さらには国家が、これから取るべき方策、進むべき道などが示されているという、ある種の預言であり、また予言でもあった。

 

 これを北は「神仏言」と呼び、昭和四年四月二十七日から昭和十一年二月二十八日、つまり二・二六事件発生の二日後に北が逮捕されるまでの約七年間、ほとんど毎日欠かさず記録し続けた。

 かくして『霊告日記』と称される奇書とも怪書ともつかない薄気味悪い膨大な記録が世に遺されたのである。

 

 

◎幻惑の怪文集

 

 『霊告日記』という呼称は、後年に北一輝研究で著名な松本健一が翻刻出版(昭和六十二年)するにあたり仮に名づけだけで、北自身は「神仏言集」とか「天啓録」などと呼んでいる。

 そこには霊告以外にも、北夫婦の見た夢や出来事などについても記録された。が、多くは抽象的な短文の羅列で、寸言、告白、暗喩、感想、備忘ともつかず、第三者が読んだところで、その意味や意図も正確に理解することができない。

 たとえば、冒頭から奇怪な文章が記される。

 

「巨大ナル掌ノ中ニ文字/売国奴」

 

 一見、不可解ながら北の生涯と昭和史とに照らして読み込めば、明確な意図や目的もあるらしい。だがとくに意味はわからずとも、その禍々しい筆致の文章はただ読むだけでも興味深い。少し拾い出してみよう。

 

「凡て過ぎたるハ及バざる」「何事も人を知り器を知らさるハ愚なり」「迷ひの道行かず大道を行け」「方便にて進め」「一歩たりとも譲るな」「軍略は極秘なり」「白キ水蓮ノ花三輪」「桃太郎、旗、猿、犬従フ」「十字架、タテノ木に我カ神、横の木ニ汝ノ神」「何十人ホドノ骸骨現ハレ、掴ミ合ヒヲナス。長時間ナリ」「便通一日一度乃至二度/自力心以て習慣つけよ」「ウワハハハ、首取つた」「エイッ、一撃を加ふ」「余ヲ拳銃ニテ射ル。ドント音シ余倒ル」

 

 じつに不気味である。また、夢の記録でも、「焼きチクワを食べようとすると、妻が毒があると言って奪い去ろうとするので争いになった」だとか、「餅を風呂敷に包んで島流しの人に持っていく」だとか、「痩せ衰えた女が首に取りついて一緒に風呂へ入ったがあまりの恐ろしさに合掌して経を誦えた」だとか、どれも妙に胸がザワつく内容である。

 昭和初頭、陰謀に裏工作と直接・間接に暗躍してきた北だけにどれも意味深長な一方で、どこまで本気で受け取っていいのか、単に悪趣味な冗談や無邪気な遊戯がエスカレートしただけのようないかがわしさも漂う。

 それゆえ「まちがいなく、北が書き残したもっとも馬鹿げた文章」(渡辺京二『北一輝』)などと切り捨てられ黙殺される評価がほとんどであった。

 

 しかし霊告が、実際の昭和初期の血腥い事件や政治と呼応しているのは確実なのだった。そして、北を慕って出入りする門下生や青年将校らに霊告を示して、さまざまな指令を出していたことも事実であった。

 日記の執筆期間に起きた、浜口雄幸襲撃事件、三月事件、満州事変、十月事件、血盟団事件、五・一五事件、永田鉄山斬殺事件など、北に関わりのあるなしは別として、少なくとも何らかの見解を示しているはずなのだが、どれも確証的なものはない。というより、確定できぬように施され、いずれ官憲に押収される後難まで警戒していた節もある。

 

 また霊告の多くは、お告げの主の名が記されていて、神仏のみならず歴史上の人物も登場する。明治天皇はじめ、西郷隆盛、大山巌、乃木希典、副島種臣、聖徳太子、平将門、塚原卜伝、山岡鉄舟、高山彦九郎、大塩平八郎など、脈絡があるようなないような、しかし興味を誘う顔触れである。つまり日記の内容は北の意志表明でなく、歴史の英傑たちからの指令だという弁明であって、北が逆に神霊たちを利用したということにもなろう。

 

 実際、二・二六事件で北を逮捕した東京憲兵隊特高課長だった福本亀治は家宅捜索で日記を押収し、「これを見ても北が事件の前後青年将校等の中心幹部に対し、如何に指導しまたその指導的な立場にあつたか、この証拠によつても明らかになつた」(『兵に告ぐ』)とのちに回顧しているが、この不明瞭な散文にどれほど決定的な罪の証拠があったのかまったくわからない。

 

 

◎魔力の出どころ

 

 いずれにせよ北夫婦が日常的に繰り広げていた異様な光景は、北の逮捕で終焉を迎えた。同時にすず子の神がかりの能力も失われたという。祭司と巫女との関係からすればあり得る現象なのだろうが、周囲では不審を抱くものも少なくなかった。

 ただ、このことからも北が他者に影響を与える強烈な妖力(言い換えるところのカリスマ性)が窺い知れる。これについて北の弟の昤吉はどこか冷淡な調子で証言している。

 

兄には能くいへば霊感があり、悪くいへば憑拠的性格である。恐らく俗にいふ天狗の様なものが憑いてゐるのではないかと思はれる。昼でも度々幻覚を認め、〔中略〕法華経の篤信者といふよりも、狂信者であるが、理論に優れた人物としては、珍らしい傾向である。(「兄北一輝を語る」)

 

 哲学者であり政治家でもあった昤吉にすれば、怜悧なはずの兄が非科学的な現象にのめり込むのを苦々しく感じていたようだが、たとえばエジソンのように理知的な人物がオカルトに傾斜するのはわりに知られる話である。さらに昤吉はこう推測する。

 

兄がどうして霊感的人格になつたかといへば、既に幼少の時から、その萌芽があつた。妙な夢を見て怖れたり、夜分何物かの幻覚を生じて、気味悪るがつてゐた。〔中略〕この変態心理的傾向は、永年の眼病の為め、コカインか何かに影響されたのではないかと思ふ。頭が変則的に鋭敏になつてゐることは、争はれない。(同)

 

 よく知られるとおり北は幼年期から眼疾に苦しみ治療の甲斐なく右目は失明し義眼であった。昤吉は霊力の正体を治療に使用したコカインか何かではと推定するがどうだろうか。

 幻覚症状を伴う病気となれば、薬物依存症だけでなく、統合失調症や認知症などの可能性もあるというが、北の場合そういう一般的な医療診断では済ますことのできない、やはりどこか意識的な「魔がかり」の薫りが立ち込めている。

 

 そもそもが北には浮世離れしたロマンティシズムとヤマ師の性質が混在していた。

 佐渡の金山採掘権で一儲けしようと板垣退助に持ちかけたり、幕末に銚子沖で沈没した軍船「美賀保丸」の幕府軍用金を引き上げようと画策したり、日露戦争時にロシア軍が旅順の黄金山砲台下に隠したという金貨を掘り起こそうとしたりと、真偽も定かでない噂に相当の資金をつぎ込んではすべて失敗に終わっている。純粋な夢追い人であり、軽はずみな投機師であった。こうした北の俗事的な側面は、あの霊告行為の没頭ともまた無関係ではないだろう。

 

 通常、北の生涯や思想について語る場合、古今絶無の大著とはいえわずか三冊(『国体論及び純正社会主義』『支那革命外史』『日本改造法案大綱』)の援用によってのみ説かれることが多い。しかし「もっとも馬鹿げた文章」の霊告もまた、北が記したかぎりは無縁であるはずもなく、むしろその観念や情緒が肉体と直接結びついて噴き出した断片にこそ、北自身はもとより日本の思想史や精神史の究明への重大な問題が含まれていると肯定してもそれほど見当違いとも思えない。

 同時期に大きな影響力のあった田中智学らによる日蓮主義とはまったく没交渉の北独自の法華信仰は、教養人の理想的実践意識とは別の(あるいはより先鋭純化させた)「もっとも馬鹿げた」ところにこそ意味はあって、説明のつくような理屈も合理も問題としない清濁併呑の生々しい粘り気が人間には宿っているという事実への孤高の行であった。おそらく北の霊感や狂信は薬害でも気がふれたのでもないのだろう。そもそもそういう人なのだ。

 

 

◎「覚めてゐた」悲劇

 

 しかし問題はその先である。すべてを透視するほどの鋭い才気や妖気を北自身が革命家としてどう考えていたか、二・二六事件に強い思い入れを持ち続けた三島由紀夫は恐ろしいほど克明に、かつ同情的に指摘する。

 

革命には神秘主義がつきものであり、人間の心情の中で、あるパッションを呼び起こす最も激しい内的衝動は、同時に現実打破と現実拒否の冷厳な、ある場合には冷酷きはまる精神と同居してゐるのである。〔中略〕彼〔北〕は絶対の価値といふものに対して冷酷であつた。また自分の行なふ純粋な革命行動といふものに対しても、自ら冷たい目をもつてゐたと思はれる。(「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」)

 

 三島は断言こそしないが、北の一連の霊告行為はパフォーマンスや芝居といった極めて意識的な振る舞いだったと考えていたようだ。それは、北の「純粋な革命行動」が、自己の「冷たい目」によって常に自覚され続けていたと見抜いていることからも想像できる。だが、それゆえにまた深い悲しみがあるという。

 

もし、北一輝に悲劇があるとすれば、覚めてゐたことであり、覚めてゐたことそのことが、場合によつては行動の原動力になるといふことであり、これこそ歴史と人間精神の皮肉である。(同)

 

 霊感や神秘主義に即、不純や欺瞞を見出す必要はない。北の悲劇は革命の挫折や極刑による死などでなく、その見えすぎる洞察力で自滅の結末を知り抜いていながら、それをまっとうせねばならないほど「覚めてゐた」ことにあった。

 だからこそであろうか、処刑前の北は超然としていた。後世から公平に見ても二・二六事件の首魁とされたのはほとんどでっち上げのスケープゴートであったわけだが、特設軍法会議で死刑判決を受けても、微塵も不服を示さず敢死の態度を崩さなかったという。

 そして面会にきた門下生にこう告げる。

 

私は最(も)う肉体は必要はない。今後は霊界に行つて霊界から諸君を見守つて、諸君を激励し、諸君を指導するから、皆なも其の意向(つもり)でしつかり行(や)り給へ。(馬場園義馬「北一輝先生の面影」)

 

 もはや妄想とも無我の境地ともつかないこの途方もない言葉が、滑稽な「神」の威嚇のようであり、崇高な「魔」の鼓舞のようでもあるのは、神と魔とが切り離せないばかりか、それらが対極でも対立でもなく、今さら驚くべきことのない、人間がそもそもそういう存在であることを思い出させる。北はそれが顕著かつ劇的に表れただけなのだ。

 しかし話がそれほど簡単であるならば、北の死からまもなく九十年、我々は北一輝以降、いまだ一人の北一輝も生み出せていない事実をどう説明できようか。

 この種の危うい魔王的人物の登場を熱望し一途に身をゆだねる愚を心配するより先に、幼稚で紋切り型の価値観と人間観しか持ち合わせていない現代社会の土壌では、およそ生み出せないのは当然であり、この状況が続くかぎり、北の遺した「しつかり行(や)り給へ」は我々の胸で響いたままに止むこともないのである。