イギリスの作家・詩人であるG.K.チェスタトンの著書『正統とは何か』は、1908年に発表されたキリスト教擁護論の古典的名著であり、また彼自身の知的・精神的な旅を記した自伝的エッセイである。チェスタトンは同著において、近代の進歩主義や懐疑主義、唯物論に疑問を投げかけ、キリスト教の伝統的教義を「正統」として擁護した。しかし、この書は単なるキリスト教弁証論ではない。彼は、キリスト教信仰という大いなる枠組みを通して、理性と直観、個人と伝統、自由と秩序を統べるものとしての「正統」を説こうとしていたのである。
というのも、チェスタトンの生きた近代はまさに「相対主義を理性の名において思想の高みに登らせてしまった忌むべき時代」であった。一方で、信仰やそれに基づく秩序は軽んじられ、放埒な自由が正当化された。チェスタトンはそうした時代にあえてキリスト教の伝統的教義や神秘主義の重要性を説き、近代社会へ警鐘を鳴らしたのである。彼はこの書において理性に偏重する思想が、直観や「驚異の念」を切り捨てることに対する批判を展開している。
「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」。「単に理性を働かせているかぎり、理性は相も変わらず同じ堂々巡りを繰り返しているだけである」。その上でチェスタトンはそうした狂気から脱出するための処方箋を提示している。
「人間を正気に保ってきたものは何であるのか。神秘主義なのである。心に神秘を持っているかぎり、人間は健康であることができる。神秘を破壊する時、すなわち狂気が創られる。平常平凡な人間がいつでも正気であったのは、平常非凡な人間がいつでも神秘家であったためである。薄明の存在の余地を認めたからである」。
そしてチェスタトンは言う。人間が正気を保ちつつ健康的であるには、運命を信じながら、自由意志を信じるといったような一見矛盾するものを互いに釣り合わせることだと。またその均衡を最も表現しているものがまさしく「十字架」であると説いている。「(前略)十字架は、その中心には衝突と矛盾を持ちながら、四つの腕をどこまでも、しかも全体の形を変えぬままに遠く、遠く伸ばしていくことができるのだ」。すなわちチェスタトンは、「神秘と生気」の象徴として「キリスト教」を擁護しようとしていたのである。
ただしここで留意しておかねばならないのは、チェスタトンは決して理性そのものを批判していたわけではなく、理性の前提である感情・直観、そしてその背後にある伝統や歴史、宗教を懐疑する者たちを批判していたということである。彼は理性の根幹には宗教、あるいは信仰があることを同著の中で繰り返し強調している。
「いつもいつも、理性か信仰か、どちらを取るかなどと言って暮らすのは愚論もいいところであろう。理性そのものが宗教の問題だからである」(50頁)「宗教が滅べば、理性もまた滅ぶ。どちらも共に、同じ根源の権威に属するものであるからからだ。(中略)そして、神によって与えられた権威を破壊することによって、われわれは人間の権威という観念まであらかた破壊してしまったのだ」。
つまりチェスタトンは、信仰とは理性と直観・宗教とを越えたまさにドラマティックなものであり、またそれこそが「正統」であるということを同著において示したのである。が、このようなチェスタトンの言説に、私自身は信仰への急峻な飛躍を感じざるを得なかった。これは、私が若く未熟であるからかもしれないし、宗教的体験がほぼ皆無に等しいからなのかもしれない。何れにせよ、彼の信仰論はどこか遠い地平のように感じられたのである。
恐らくだがチェスタトンの議論は、人生の複雑さや矛盾を深く経験し、かつそれらを引き受けることができた者にのみ腑に落ちるものなのであろう。またそうした人々は超越的存在(神仏)というものを確実に認めていたであろう。だが近代人は、本来、矛盾と葛藤に満ちているはずの人生や社会というものを、理性によって対象化し、合理的に捉えることができると信じて疑わなかった。そして、超越的存在を非理性的なものとして嘲笑したのである。こうした理性以外のあらゆるものを失ったまさしく「狂人」が、人間の理知では理解しえぬもの、語りえぬものに直面したとき、どのような状態になるかは容易に想像されうる。大抵の場合は、自意識の無限後退に陥るか、はたまたそれに耐えきれなくなって「ニヒリズムという不気味な訪問者」を自らの人間精神のうち招き入れてしまうであろう。では、宗教的な権威がすでに失墜し、信仰への手触りを感じづらくなった現代社会を生きる我々は如何にして正気を保てば良いのであろうか。
ここで立ち上がってくるのがまさに「伝統」の問題である。チェスタトンはキリスト教、あるいは伝統一般を「荒馬を御すための平衡感覚」めいたものととらえていた。自己(理性)の前提に、人間の生における一切の混沌が含まれている伝統や宗教、歴史があることに気づけば、理性そのものの可謬性を自覚でき、矛盾と葛藤、混乱に満ちた世界ないし人生をもありのまま引き受けることができるはずである。その現実を認めたとき、人はようやく「中庸」という態度を保つことができるのだとチェスタトンはあの理性偏重の時代にあって勇気を持って示したのだ。さらに彼の議論は、そうした「中庸」の態度こそが、この世界の矛盾と衝突を中和せしめる「十字架」、つまり「信仰」へと至る唯一の道であるということを同著において示唆したのである。
とはいえ、地域社会や共同体、さらには家族の紐帯が希薄化し、伝統や歴史への実感が喪失しつつある現代を生きる我々がチェスタトンの伝統論を完全に理解できるかについても些かの疑問が残る。少なくとも、失われつつある伝統や歴史というものを主体的な意思を持って救い出し、それらを自己の根幹をなすものとして保守しようという心構えがなければ「信仰」どころか「中庸」の精神にすらたどり着けないであろう。
が、これらの漠然とした違和感や疑念、あるいは懸念はただ単に私自身がまだ22歳と若く、未熟で経験が浅いことからくるものなのかもしれない。喩えるならば、同著の冒頭において登場するイギリス人のヨット乗りのように、大海原に漕ぎ出したばかりに過ぎないということなのであろう。私は未だ未知の大海の只中で理性と信仰、懐疑と神秘の間で揺れている。だが、この先もヨットの櫂を強く握りしめ、大海原をこぎ進めることを決してやめるつもりはない。たとえ、文明が紊乱を極め、「伝統」という微かな光をも見失いそうになったとしてもである。なお、チェスタトンは現代という荒波においてあえて試練に挑もうとする航海者たちを勇気づける言葉を残している。
「現代の複雑な世界のほうが、単純な問題しか知らなかった信仰の時代より、はるかに完璧にこの信仰の真なることを立証する」。「複雑であればあるほど、いつまでも尽きせぬ発見のよろこびが埋蔵されている証拠なのだ」。
複雑さを増し、ますます混乱と葛藤に満ちた今日的状況にあればこそ、その航海の歩みを進め続ける意味があるのである。そうすればやがて、あの寓話に登場するヨット乗りの男のように、航海の果てで「不思議なものと、確実なものとの結合」、すなわち神秘の道に至ることができると信じている。同著におけるチェスタトンの言葉の数々は、現代にあって信仰への飛躍という容易ならざる試練に挑む航海者たちの羅針盤となり、その思想的・精神的な旅路の力強い伴侶となるに違いない。
林琉汰(大学生・千葉県)
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