庶民からの反逆——市場から社会を防衛するのは誰か

 

(特集座談会 by 小浜逸郎・藤井聡・柴山桂太・浜崎洋介)

 

ポピュリズムは悪しきものか

 

藤井 「表現者クライテリオン」の平常号はこれで第三号になりますが、これまで「保守」や「ナショナリズム」を論じてきましたが、今回は、そんな保守やナショナリズムを考える上でも、無視することができない、今、世界を席巻しつつある「現象」を取り上げたいと思います。「ポピュリズム」の問題です。
 もともとポピュリズムをテーマにしようと考えた契機は、ブレグジットやトランプ現象でした。これらの結果、EUも崩壊に向かって大きく動き始めていますし、北朝鮮や中東をめぐる世界史的状況が大きく変わりつつあります。結果、我が国にも巨大な影響が及びつつある。それは日本の歴史は過去二千年間、朝鮮半島情勢に大きく左右されてきたからですが、いずれにせよ、アメリカ一国のポピュリズム現象によって我々が大きな影響を受けつつある。こんな状況を踏まえれば、我々日本、そして世界の行く末を見定めるためにも、このポピュリズムというものを正面に捉えて徹底的に論じておくことは重大な意味を持っている、という次第です。
 一方で、日本国内におけるメディアの論調などを見ていると、多くのコメンテーターや有識者たちは眉をひそめながら「ポピュリズムはダメだよな」と言い、ブレグジットやトランプの勝利が決まった瞬間に「イギリス人がこんなにバカだとは思わなかった」「トランプの人気取りの大衆迎合主義が勝利しただけだ」などと皆が口を揃えて罵っていた。つまり、ポピュリズムは悪しきものであるという一面的イメージが日本国内で色濃く共有されているわけです。
 確かにポピュリズムは、例えば、大衆の俗悪性を徹底的に批判し続けたオルテガの大衆社会論にもつながるもので、批判される側面がある。
 ところが、今の薄甘く共有されているポピュリズムに肯定すべき側面は皆無なのだという「全否定」は、完全なる愚の骨頂だといえる。なぜというに、EUにある種の欺瞞があり、その欺瞞に対する理性的反応、あるいは、カール・ポランニーが言った社会的防衛(ソーシャル・プロテクション)としてブレグジットがあったと捉えることが可能だからです。同じくアメリカにおける新自由主義やグローバリズムに基づく数々の政策によってアメリカ国内が蝕まれているということに対する庶民の社会的防衛としてトランプ現象があるということができるからです。
 したがって、ポピュリズムが一面において否定すべきものである一方で、肯定すべき側面もあるといえるわけです。あるいは、ある時期まではポピュリズムを否定すべきものであると捉えることが実践的には有効であったのかもしれないが、今のこの時代はどうやらポピュリズムの肯定的側面を意図的に認識し、それを拡充することが実践的に重要な意味があるのではないか、といえるわけです。
 なぜそのように時代が変わったのかといえば、我々が「表現者クライテリオン」の中で論じてきたような「伝統」や、その中に胚胎している「クライテリオン」(基準)がしっかりしていた時代には相対的にポピュリズムは悪しきものである側面が優越していた一方、世の中を動かしているエリート層、あるいは国家や政府の中枢が腐敗し、俗悪化し、溶解してきた状況では、「庶民」が持っている感覚の中に残存しているある種の「理性」を、もう一度拾い上げることが必要になっている、といえるのではないかと思います。あるいは、政治が求めるべき善の中に庶民の良好な暮らしという要素が含まれている以上、庶民たちのエゴイズムと政治が目指すべき方向とが重なり合う部分があるわけで、その限りにおいて、仮にそのポピュリズムが庶民たちのエゴイズムに「過ぎない」ものであったとしてもそれは全面的に肯定されるべきものなのだ、ともいえるわけです。
 そういう意味で、ポピュリズムを一面的に悪しきものとして論じることこそが、今日の政治的な状況認識を誤らせている最悪の元凶なのだとすら言うことができるように思います。だから今、ポピュリズムというものを多面的に捉え、肯定的な側面も含みうるのだという前提で論ずる言説が、世界において、とりわけ日本において強く求められているように思います。ついては、今回の本誌の特集、そしてこの座談会のタイトルを「ポピュリズムは肯定できるのか?」といたした次第です。
 それではまずは今日は、「表現者」の時代からずっとご寄稿いただいている小浜先生にご登壇いただいて、お話をお伺いするところから始めたいと思います。

 

小浜 藤井さんから明晰な歴史分析をお聞きして、なるほどなと思っていたのですが、まず用語の問題をはっきりさせておきたいと思います。ポピュリズムとは何かということです。言葉の意味は時々の歴史の流れの中で変わって、私の若い頃などは、例えばナショナリズムという言葉は非常にネガティブな印象で捉えられていた。それで何十年も経って、今、ナショナリズムという言葉はそれなりに市民権を得ていて、グローバリズムとの対比でいえば大切なことなんだという認識がけっこう浸透してきた。
 そういうことは他にもあって、例えばホーフスタッターが『アメリカの反知性主義』という本を書きましたよね。ホーフスタッター自身は、アメリカの中でインテリ層、あるいはエスタブリッシュメントが占有している状況に対して、民衆の目線から彼らを疑問視して、いま占有されている「知性」なるものは本当に国民の生活を幸福に、豊かにしていくことにつながっていないと説いたのが、本来の反知性主義なんですね。ホーフスタッターは、自国の政治史を痛みとともに追いかけて、反知性主義の問題点を緻密に分析しています。けれど、これが日本に輸入されると、内田樹さんなんかが「日本の反知性主義」というふうに言葉だけ借りてきて、安っぽいネガティブ・キャンペーンに使っている。つまり、安倍政権に対する単なる反権力の思想として、これは言葉として使えるぞと思って、「あいつらは反知性主義だ」という言い方をしたわけです。単にレッテル貼りとして使っている。
 ポピュリズムもそういうところがあります。ポピュリズムの最初は何かというと、一番顕著なのはアメリカで十九世紀の末頃から起きてきた人民党です。民主党と共和党の二大政党が確立するちょっと前くらいの段階で、農民の生活に根ざした土着的な、エスタブリッシュメントに対する反抗という目標が強くあった政党です。民主党に籠絡されて吸収された感じがあって、期間は短かったですけど、とにかく彼らの主張は生活に根ざしたものだった。銀行や、いわゆる財閥である鉄道、そういうものに対する反抗から出てきた。その庶民的なモチーフを我々はちゃんと見ないといけない。ロシアのナロードニキなんかもそうですよね。
 私が描くイメージは、例えば薩摩の西郷さんとか、近代国家というものが確立する以前の土地に根ざした社稷みたいな観念をいわば中核に据えて興起した運動かなと。農本主義と言ってもいいのですけどね。ポピュリズムといえば本来、そんな感じがするわけです。
 それがいつの間にか、オルテガの大衆批判の標的の一つとしての大衆、わっと都市に集まってくる大群衆、烏合の衆が力で勝手に決めていくみたいなイメージになってしまって、いま日本でポピュリズムは大衆迎合主義と言われますよね。政治家にしっかりしたポリシーがなくて、何でも自分たちの人気取りのためにホイホイ言うことを聞いちゃうみたいなね。それってちょっと違うのではないか。もっとポピュリズムの原点に帰って、そこに価値を見出していったらいいんじゃないかなと考えてきたわけです。
 先ほど藤井さんもおっしゃったように、今、政治の中枢部分が溶解しちゃって、ぐちゃぐちゃになっている。そういう状況の中でポピュリズムを見直そうという考え方は大変賛成なんです。ポピュリズムというものは、政治体制が中核にきちっとあって、それとの相対的な関係で、一方でそれだけではないだろうというものがある。そのバランス関係で意味があり、価値があるものじゃないかと思うんですね。

 

藤井 つまり政治におけるアウフヘーベン(弁証法的止揚)のための、庶民側からの契機としてポピュリズムがある、と考えられるわけですね。

 

(後略)

 

 

……以下、柴山桂太・浜崎洋介両氏の議論を含め、続きは『表現者クライテリオン』2018年9月号でお読み下さい。(定期購読はコチラから。)