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『クライテリオン』、その人間論を読む。

七里正昭(福岡県、35歳、団体職員)

 

 コロナ禍以降、共感できる人間論がほぼ皆無になった。「自粛!」「緊急事態宣言!」「検査!隔離!」「ワクチン接種!」といった大合唱が社会全体を覆った。隔離された歴史上の人々の悲しみを回想すべきだった文学者や歴史家も、その務めを放棄し、大合唱に加わった。戦後は、ことに現代は人間を語りえない。改めて落胆した私にとって光明となったのが『クライテリオン』であった。ここには人間論があった。
 松林薫氏は「ワクチン報道への疑問」で「政府やマスコミ、製薬会社の陰謀を語る人々」に対して「根拠が薄弱でつじつまが合わないものが多いため、デマ扱いされがち」だが「彼・彼女らが感じているエリート層の胡散臭さや、人々の多様な意見や価値観を置き去りにして一方的に突き進む社会の危うさまで否定できるだろうか。おそらく、そうした直感自体は概ね健全なのだ。」と寄り添う。そして「ジャーナリストとは本来、そうした声なき声を拾い上げて言葉を与え、世に問う存在だったはずだ。いつから庶民の精一杯の抵抗を冷笑的に取り上げ、権力の片棒を担ぐようになったのだろう。」と指摘する。見事だ。こういう丁寧な分析は、リベラル左派が先にすべきではなかったか。
 コロナ禍では、カミュ『ペスト』の評論が百出したが、唯一納得できたのが、藤井聡・柴山桂太・浜崎洋介・川端祐一郞各氏による座談会「カミュ『ペスト』を読む」だ。
「『我々は政策論は饒舌に語れても、人間についての議論ができなくなったんだなぁ』という感じがすごくしました。」(川端氏)。そう、医療政策論ばかりがあふれている。
「カミュは自宅待機の状態を、まるで『流刑』に遭ったみたいだと表現していますね。(中略)今はそういう議論が一切出てこない。」(柴山氏)。「ステイホーム!」という標語の津波を、私は苦々しく思い出す。
「世間は、カミュの『ペスト』をコロナ禍の比喩として読んでいるけど、むしろ、今、人々に一律の『追放と死』を与えている不条理は、『コロナ』じゃなくて、この『過剰自粛』の空気の方ですよ。」(浜崎氏)。こう読めない文学者が何と多いことだろう。
「コロナで我々が直面している一番深刻な問題は、まさに自分自身の『生』に対する『愛』がなくなっているということではないかと。」(藤井氏)。
 読み手は「今、君は生きているか」という問いを鋭く突きつけられ、自問自答せざるをえない。
 小林よしのり氏との対談で、藤井氏は「バタフライエフェクト(蝶々が飛んで起こった小さな空気の動きが巡り巡って遠く離れた国の台風を巻き起こすこともありうる、という比喩)を引き起こしてどんどん人生が変わっていくっていうのがありますけど、そういうイマジネーションは人間にとって絶対必要なんだと思うんです。(中略)そういうイメージを持っている人間というのは、このコロナの自粛というのがどれだけ恐ろしい禍根を残しているかというのが手に取るように分かるはずなんです。」と話す。この言葉には、雷に打たれたような衝撃を受けた。文学者は、作家は、バタフライエフェクトを表現し、伝えるべきだった。いや、私自身、働き暮らす日々において、バタフライエフェクトに自発的に気づくべきであったのだ。コロナ後の日本社会を構想するのは、バタフライエフェクトを感受できる者たちでなければならぬ。
 伊藤貫氏による数々の珠玉の評伝。人間にとって「移動」とは何かを深く見つめる仁平千香子氏の文章。フーコーの思想を語るべきときに語る野家啓一氏の矜持。「何としても我々の内に永遠への扉が開かれねばなるまい。」(小幡敏氏)。『クライテリオン』は暗闇の世に幾筋もの光芒を放つ。
春。あたたかな陽光のなかで、そのページをめくり、深呼吸したい。