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ルイス島のチェス駒が教えてくれること

橋本由美(東京都)

 

 我家の居間に、ルイス島のチェス駒(Lewis Chessmen)のレプリカがある。
 チェス駒の「びっくり眼」の表情がユニークで可笑しい。キングは王座に座って膝に置いた剣を今にも抜きそうに身構え、クイーンはギョロ目を見開いてびっくりしたような顔に頬杖をついて何やら思索に耽っている。ナイトはおもちゃの木馬に乗った幼児のようで、ルークは剥き出した歯で盾にがっぷり噛みついている。それら全てがびっくり眼で前面を凝視しているのだ。洗練された美術品とは言い難いが、それぞれの駒の醸し出す滑稽さがルイス島のチェス駒の魅力になっている。

 ルイス島は、スコットランド北西部ヘブリディーズ諸島の島である。一八三一年にこの島の西岸のウィグ湾にある砂洲から石室に隠された七八個のチェス駒が発見された。一二世紀の制作と推定されていて、素材はセイウチの牙である。キングが八個、クイーン八個、ビショップ一六個、ナイト一五個など、何セットかのチェス駒の一部が残っていたのだろうと言われている。このチェス駒は、スコットランドの古物協会で公開された後、個人や大英博物館などに分割して購入され、現在は大英博物館(六七個)とスコットランド博物館(一一個)に収蔵されている。
 チェス駒の所有者は不明だが、何セットもあったことから交易品ではないかと推測される。重要なのは、ルイス島がヘブリディーズ諸島の島で、北海の通商圏の要衝にあるということだ。スコットランドの北にあるシェトランド諸島は、一四七二年にスコットランドに編入されるまではノルウェーの領土で、ヴァイキングの拠点でもあった。そこからアイルランドへ向かう途中のルイス島もノルウェー領で、その頃の言語はノルウェー語であった。

 ヴァイキングが出現する二百年ほど前に、地球は寒冷期に襲われた。西暦五三六年から始まった異変は、『日本書紀』にも記述があり、宣化天皇が飢饉の対応に追われたという。中国の南北朝時代の『北史』には雹が降って大飢饉になったことや、『南史』には八月に雪が降って飢えた長江南岸の住人が人肉を食べるほどであったと書かれている。東ローマ帝国で書かれた『ヴァンダル戦記』やエフェソスで書かれた『教会史』にも、昼でも太陽の光が届かず、寒さと飢饉で疫病や争いが起きたと記録されている。ユーラシアの内陸部は寒冷化と乾燥化で大きな打撃を受け、民族移動が各地で摩擦を引き起こした。屋久島の縄文杉の年輪にもその痕跡が見られる。
 この寒冷な気候と大飢饉の原因は、火山の大規模な噴火で火山灰が地球の大気圏を覆ったか、巨大な隕石か彗星が大気中で爆発して塵が撒かれたためではないかと言われているが、それらを証明するものはまだ発見されていない。

 この地球規模の天候異変はヨーロッパの古代を終わらせた。不毛の農耕地を放棄せざるをえなくなったスカンジナビア地方では部族間の抗争が絶えず繰り返されるようになり、八世紀頃、勇敢なリーダーが戦闘集団を率いるヴァイキング社会が現れた。
 寒冷期が終息して次第に温暖な気候になり、海を覆っていた氷が解けると、もともと農民や漁師であった彼らは、新しい造船技術によって船足の早い流線型の木造船を造って帆走を習得し、広大な海原に乗り出した。ノルウェー海から西へスコットランド・アイスランド・グリーンランドにも拠点を設け、カナダのニューファンドランド島まで到達している。ヨーロッパの沿岸や島嶼部だけでなく、大河を進むことが可能な浅い船底のヴァイキング船(ロングシップ)は、バルト海から内陸に侵攻し、ボルガ川・ドニエプル川・ライン川などを利用して、黒海やカスピ海にも盛んに行き来をしていた。北海や大西洋ではエルベ川やロワール川などの河口から内陸に遡って沿岸で交易をした。東はアフガニスタンやカザフスタン、南は黒海からトルコ・イラン方面や地中海沿岸、西はカナダに至るまで、実に広範に活動していたのである。アーチ状の梁で石造りの天井を支える建築技術が未発達だったころ、ヨーロッパ中世の古い教会には上部を軽く保つために天井部分が木製になっているものがある。海岸や大河流域には、ヴァイキング船の船底の竜骨を逆さにしたような木造天井の建築物があり、ヴァイキングの活動域を知ることができる。

 ヴァイキングは沿岸部の教会や修道院や集落を襲った。交易に利用する市場が教会や修道院前の広場で開かれていたことから、礼拝に使う金銀の聖杯や装飾品などの財宝が狙われて、多くの教会や修道院が襲撃のターゲットにされた。度重なるヴァイキングの急襲は沿岸部の住民を恐怖に陥れた。
 ヴァイキングは略奪ばかりしていたわけではない。彼らはその行動力を生かした少々荒っぽい商人でもあった。中世以前のガリアやブリタニアは後進地域である。ローマ帝国が衰退して通商の要衝の地中海地方をイスラム勢力に奪われたヨーロッパでは、東方のガラス細工や絹などの贅沢品や地中海地方のオリーブ油やワインの需要は大きかった。ヴァイキングは毛皮や琥珀や蜂蜜などを船に積み込み、オリエントの金属工芸品や装飾品や織物やコインなど、あらゆるものと取引をした。なかでも奴隷は価値ある商品で、ヴァイキングは襲撃した地域の住民を拉致して奴隷として売りつけていたのである。東欧では一帯の住民を襲撃してキエフの大市場で彼らを売り捌いた。奴隷の多くがスラブ系住民であったことから、多くのヨーロッパ言語で「スラブ」は「奴隷」(slave)の語源となっている。
 ルイス島のチェス駒もヴァイキングの交易品であったと思われる。そこに隠された経緯は謎のままであるが、ルイス島がノルウェーのトロンハイムとダブリンの交易ルートの中継地であり、トロンハイム周辺で作られた工芸作品と似ているために、チェス駒の生産地はトロンハイムだと考えられている。

 チェス駒の素材がセイウチの牙であることもヴァイキングとの関連を物語っている。セイウチの牙は、ヴァイキングが入植したグリーンランドの輸出品であった。グリーンランドは、通称赤毛のエイリークが十世紀の終わり頃にヨーロッパ人として初めて探検・入植し、原住民のイヌイットと棲み分けて植民地経営をしたと言われる。中世温暖期のヨーロッパはかなり気温が高かったらしい。氷の無いフィヨルドの大地は「緑の土地」グリーンランドと名付けられ、入植者たちはここで農耕や羊・牛の放牧、漁業や猟を営んだ。
 グリーンランドの植民地からノルウェー本国に納める十分の一税はセイウチの牙で物納された。ヴァイキングが活動を始めた八世紀ころからは、オリエントからアフリカ北岸はイスラム勢力下にあった。このためにヨーロッパ地域に高級工芸品の素材である象牙の供給が途絶え、セイウチの牙は象牙の代替品として大きな需要を生んだのである。セイウチの牙はヴァイキングの重要な収入源だったが、十字軍のイスラム世界への侵攻でオリエント地域が解放され、象牙の供給が再開されると、その需要は激減した。
 温暖期が終わり、十三世紀後半から始まった小氷期には、グリーンランド東岸沿いの氷山が南下して北大西洋一帯は流氷に覆われるようになり、アイルランドやヨーロッパ大陸との交通路が断たれてしまう。十六世紀の初頭にはグリーンランドからヴァイキングは消えた。ヨーロッパ文明と無縁のイヌイットはその後もグリーンランドの気候に適応してその地に生き続けた。
 今世紀、再び氷が解け始めたグリーンランドは、いま、埋蔵量の豊富なレアアースの鉱床と、北極海航路の経済・軍事拠点として地政学上の注目が集まっている。

 まだ化石燃料が使われていなかった頃に北の海の氷を解かして彼らを大海に誘った極端な温暖化の原因は何だったのだろうか。この時代にヨーロッパの農業生産力が高まったのは、アードを改良した撥土板付きの犂が発明され、牛馬を利用した効率の良い開墾が可能になったことが挙げられる。それに加えて、温暖化で農耕に適した地域が北方や高地にまで広がったことも影響していただろう。八世紀から十三世紀のヨーロッパの高温で少雨の乾燥した気候は大地を覆っていた森林を後退させ、伐採がそれを加速させた。豊かな日照は麦や果樹の栽培を可能にして、スコットランドで葡萄が栽培されるようになりワインが作られた。農業生産の増加は人口増加を促す。十一世紀から十四世紀にかけてヨーロッパの人口が急カーブを描いて増え続け、約二倍になった。
 温暖期が終わると次にやって来た寒冷な気候と腺ペストの流行で人口は減少に転じる。人口増加が農業生産力を上回るようになった頃に寒冷化による凶作が襲い、深刻な飢饉を招いた。そこにペストの流行が追い打ちをかけたのである。宿主である鼠が、寒さで食べものがなくなった山野から餌を求めて都市部に移動したことも感染蔓延の一因になったという。この寒冷期は一九世紀初めまで続くことになる。
 人口の変化は社会構造を変える。ペストによる人口減は人手不足を招き、賃金労働者が増えた。寒さから身を守る分厚い衣料品の需要が生じ、十七世紀までに農民の手仕事や手工業として毛織物生産が盛んに行われるようになった。贅沢品に代わって大衆消費材を生み出す産業構造の変化と織物生産の技術は、後の産業革命に至る伏線となる。
 中世温暖期の森の消滅は、農耕で手を加える以前に従来の生態系を崩壊させたことだろう。寒冷期には、現代のような品種改良や防御措置を持たない冷夏が忽ち飢饉を招いただろう。一℃、二℃といった平均気温の違いは地球にとって些細な変化でも、人類にとっては時代を変えるほど深刻な環境の変化と言える。自然現象が人間の社会をドラスティックに変える要素になるのだということを、ヴァイキングや中世の歴史が語っている。

 そもそも、チェスの起源はインドにある。西暦五〇〇年ころのインドで発明されたボードゲームがイスラム世界を経てヨーロッパに伝わったものである。人類と戦闘は切っても切れないものなのだろう。この盤上の軍隊ゲームはどの民族にも人気があり、駒の種類やルールに多少のバリエーションはあっても、ユーラシア大陸の隅々まで伝わった。東の果ての日本で、それは将棋となった。
 ヨーロッパの戦争ゲームのチェス駒にビショップ(大司教)が存在することは、教会と封建諸侯の関係を物語っている。ビショップは封建王国の有力者の一人であり、精神的にも現実的にも土地と民衆を支配していた。キリスト教会は常に戦争に関わっていて、十字軍や大航海時代の布教の在り方を見ても、あまり平和的な存在だったとは言えない。日本の将棋に「坊主」や「禰宜」の駒がないのは、宗教と戦争とのあり方を考える上で興味深い。

 ルイス島のチェス駒の制作年代とされる一二世紀中頃は、所謂ロマネスク時代末期に当たる。キリスト教は土着の信仰と摩擦を重ねつつもヨーロッパ全土に浸透し、フランク王国のカール大帝以降その勢力は強大なものになった。初期のヴァイキングも抵抗勢力のひとつだったが、ルイス島のチェス駒が作られたころには、既にヨーロッパ中にキリスト教会が建てられていた。ルイス島を管轄する司教座聖堂はノルウェーのトロンハイムにあった。
 この頃の教会の彫刻やフレスコ画で、しばしばこの「びっくり眼」にお目にかかることがある。中世の美術表現はどの地域でも似た雰囲気を持っている。ルイス島のチェス駒が、南仏やスペインのフレスコ画のマリアと同じ目をしているのだ。それらは私たちに、中世の人々の芸術感覚を示してくれる。古代ギリシャやローマの理想化された彫刻が、中世になって稚拙なものに退行したのではないかという戸惑いを覚える人もいるだろう。外観の美しさや均衡を追求したのがギリシャ的であるならば、キリスト教的な美は、あくまでも信仰に価値が置かれていたと言える。信仰は可視化できない。旧約聖書で、言葉によって人類の前に現れた神は偶像を禁止した。キリストは、魚やΧΡ(ギリシャ語のキリストΧΡΙΣΤΟΣの最初の二字)などの抽象的でシンボリックな形で表現されてきた。
 八二五年のパリ公会議で、キリストの表現についての問題が討議され、次第に偶像表現が緩和されるようになる。そしてロマネスク時代に、突然、聖堂扉口に大彫刻(タンパン)が出現して、聖堂はキリスト教美術の宝庫と変身するのである。
 理由のひとつには、聖堂を持つ修道院の在り方が、司教座教会による組織の末端として、個人の修行の場から布教と民衆教化の場へと変遷したことが挙げられるだろう。具象化は文盲の民衆との接点として必要な舞台装置であったのだ。
 神や信仰を可視化するに当って教会は単純な写実を拒んだ。キリスト教精神で重要なものは強調され、価値のないものは矮小化された。ロマネスク教会のフレスコ画やタンパン彫刻がその典型で、キリストや聖人の大きさに比べて、価値を認めない人物は蟻のように小さい。フレスコ画の天井は神の偉大さと威光を謳い上げている。この時代は悪魔ですら生き生きとユーモラスで明るい。ルイス島のチェス駒に籠められた風刺や諧謔は、確かに温暖期のおおらかさである。ピエタの悲哀や受難といったテーマは、その後の寒冷期になってから好んで取り上げられるようになった。

 キリスト教は当時のグローバル勢力である。キリスト教の民衆教化を担ったものには、教会建築の装飾だけでなく、聖史劇があった。旅回りの役者たちが各地の聖堂前でキリスト生誕や聖書の説話の寸劇、聖人の奇跡の物語を演じた。彼らの衣装や小道具は、行く先々の上演地で共有されることになる。日本では、旅神楽の一座が各地の神社の祭りを渡り歩いて神話伝説の視覚的イメージを定着させていったが、中世ヨーロッパでも、それぞれの聖人特有の衣装や美術史でいうアトリビュートは聖史劇によって広まったと言える。大聖堂建築も、高度な技術を持つ棟梁が率いる大工集団が建築要請のある土地を渡り歩いて、石の切り出しから運搬、建造、彫刻などの技術を伝えた。エルサレムやローマやサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう庶民の聖地巡礼が盛んに行われるようになり、各地の聖遺物を秘蔵する教会にも遠くから人々が訪れるようになった。巡礼者を集めることは教会と周辺地域に経済効果をもたらし、そのために教会間の聖遺物の争奪戦まで起きている。民衆移動の大部分が貧困や迫害による流民であった中で、自発的な移動や現代の観光ブームに通じる情景が窺えるようになったのである。
食料増産を背景にした活発な交易や租税の増収による社会のゆとりは、庶民の巡礼ブームという長距離移動の旅を可能にした。人々が聖堂で触れた教会美術のエッセンスは各地に持ち帰られて工芸に活かされ、北の街でチェス駒を生み出した。

 現在直面している気候変動がこの先どうなるのかは、人間の寿命の感覚で捉える短い期間で結論は出ないだろう。古い気候変動から学べることがあるとすれば、その変化にどれだけ適応できるかが存続の鍵であるということだ。生物界の進化とサバイバルは、環境への適応力で決まる。古代に予想もしない隕石か火山の大爆発があったように、未来に何が起こるかはわからない。未来を完全に予測できない以上、サバイバル能力を身に付けることが大切だ。過去の人類の歴史を反省する謙虚さがあるならば、人為で未来を制御できるという覬覦に対しても謙虚であるべきであろう。脱炭素政策に邁進するだけではなく、得意な領域を汎用技術に高めて維持する努力は、想定外の事態に対処するときの保険でもある。想定外の事態は気候だけとは限らない。国家の指導者に求められるのは、国際情勢の的確な分析と、長期的展望を可能にする科学的リテラシー、そして、自国のサバイバルのための綿密な戦略である。

 ルイス島のチェス駒は、ヴァイキングと共に現れ、彼らと一緒に消えた。そこには、彼らを生み出した自然現象や社会現象が凝縮されている。
博物館の一隅で、ルイス島のチェス駒は来訪者にいくつもの謎を問いかけている。