『正統とは何か』〜近代は猛毒か、劇薬か〜

齋藤悠貴(23歳・会社員・東京都)

 

第一部「近代という猛毒」

 一体、近代という時代は我々に何をもたらし、何を奪ったのか。

 近代人はまるで思春期の子供のように、西洋哲学を手に入れることで、あたかもそれが真理を説く理想であるかのように信奉し、自分の無意識の中に眠る本来の神に蓋をしてきた。それは不自然であり、要するに実際の思春期の子供のようにキモくなるのである。

 そこで思春期の子供が取る選択は二つである。一つは自分がキモいことを自覚し、そんな自分を乗り越えるために神の存在を希求する道、すなわち芸術(悲劇=罪と罰)によって神を召喚させることによる物質的なズレの消滅、つまり神秘性の回復(神の笑い=赦し)を果たし、神以外の森羅万象に対しては劇的(理性的かつ行動的)に振る舞うという道であり、もう一つはすでに常に自分を支えている神を信じることができず、新しくて刺激的な西洋哲学を信奉し続けた結果、神への直観の糸が切断され、政教の区別は崩壊し、感情の暴走と理性の停止が起きてしまうという躓きである。神を召喚するための最大条件は人間が神への負債感に対して素直で正直になることである。この神に対する信仰さえ失わなければ、人間が道を誤るという事は決してあり得ないし、少なくとも後悔というものは起こり得ない。

 ところで、国家と宗教は本来、神の敵から神の破壊を食い止めるために存在するはずだった。しかし、近代において、それは道具としてではなく信仰の対象となり、それすらも神の敵と代わってしまう。この本来道具=物質であるものを神と崇めて、本来の神を毀損する流れはプラトン以来の出来事であり、それは「キリスト教・ヒューマニズム・物質文明」の三位一体の構造を持って完成された。

 人間は直観を頼りに、意志によって喜び(神への道)と悲しみ(悪魔の囁き)の選択をする。その選択の連続を理性によって俯瞰して神の精神的な法則性を読み取り、また次の意志による行動の選択に活かす。このような人間の倫理を日々心がけていれば、搾取(マルクス主義)などという物質的概念など生まれるはずがない。なぜなら、神と繋がりし直観は理性や意志とは違い、無限におのずから生まれてくる精神的なものであり、それを基準にして生きている限り、そのような物質的喪失感は生まれないからである。近代のありとあらゆるイデオロギーはこの本来の精神的な神に対する無視と、それゆえの物質的喪失感から生まれた。

 物質的喪失感を感じた人間は左翼か右翼となり、その喪失感を物で埋めようとする。左翼の弱点は自己を基準としている点にあり、右翼の弱点はものを基準にしている点にあるが、結局どちらも超自然=神の力に対して無自覚(ニヒリズム)で、道具連関の世界に陥没してしまっている。彼らのように道具連関の世界のうちに価値基準を見出している限り、その絶対的であるべき価値基準は状況に応じて刷新されてしまい、世界は一向に色がつけられず、ずっとグレーのままである。言い換えれば、彼らの物質的喪失感は永遠に満たされないままとなる。ここで、物質的喪失感を埋めることを目的とした場合、物質的喪失感は永遠に埋まらないという逆説が発生する。この逆説から、政治の大前提は政治以外に価値を見出すことにあるという教訓を我々人類は得る。政治以外に価値を見出すことによってこそ、政治が活きるのである。なぜなら、政治を価値としなければ、政治に対して盲目的にならずに済み、政治を理性的に俯瞰でき、かつ実践的に行動できるからである。

 保守とは精神主義であり、リベラルとは物質主義である。保守が普遍的な価値を見出さない以上、リベラルは無力であり、世界を改善していくというリベラルの本来の仕事は不可能になる。よって、政治が正しく機能するためには、やはり保守が保守すべき理想の価値基準(クライテリオン)を提示する必要があるのである。善悪を超えた基準を打ち立てることに成功すれば、その理想は絶対的なものゆえ、現実は一定の方向に漸進的に改善されていき、世界はみるみると美しくなっていく。保守なきリベラルなど論理的にあり得ない。そして、その事はこの近代五百年間の歴史が証明しており、リベラルの逃げ先はもう尽きてしまっているのである(イデア→キリスト教→理性→自由意志→共産主義→ニヒリズム)。

 このようにして、単なる逃亡者、あるいは世界の破壊者と化したリベラルは、しかしたった一つだけ破壊できないものがある。それは神である。神は礼節をわきまえない傲慢な態度を取るような者に対しては、まるで鬼ごっこで遊ぶ子供のように微笑みながら逃げてしまうのである。また、神を知っている者も、神を知るためには神と同一化する必要があり、神は信奉者をも取り込んでしまう。よって、神はやはり永遠なのである。

 

第二部「近代という劇薬」

 あらゆる逆説の真意はそのような永遠の神という善悪を超えたものに基準を置けば、世界に対して能動的に善悪の区別ができるということにある。このことを腑に落とせば、保守とリベラル、必然と自由、愛と憎しみが矛盾しないことに気づく。この基準さえ手に入れれば、人間は圧倒的な愛と圧倒的な憎しみという激情を、無限である神の生命力のもと生きることができる。

 善悪を超えた理想を手に入れること、すなわち成熟することとは、神と自己との関係性を言語化し、神のある一定のリズム、精神的法則性を体得するということである。そして、芸術家とは全人生を神に捧げて、この神との関係を「形」にしようと努力する者のことである。その結果、その芸術家の作品、あるいは生き様が観客を魅了し、観客はその芸術家の優雅な生き方に感染し、観客自身もまた芸術家として道、すなわちぎこちなかった生き方から優雅な道へと少しずつ歩き始める。なぜなら、この芸術家が演出する神の領域において、自己と世界の断絶、すなわちキモさの原因であった物質的なズレは乗り越えられるからである(近代の超克=複雑怪奇で醜く見えた世界が、単純明快で美しい世界に観える瞬間)。

 物質の時代である近代は、そうした物質のズレを乗り越える生贄を欲している。が、それは単なる死ではない。殉教者は世界に対して能動的であったがゆえに善であるが、自殺者は受動であったがために悪である。二人の違いは要するに自分の肉体を精神という高邁な理想に捧げることができるか、ということにある。人間が世界に対して能動的になるには、肉体や物質などに(最終的には)一切の関心を示さず、精神や超自然的なものにのみ特別注意を払っていなければならない。そのようにして、自分の肉体を捨ててでもなお、精神を通じて神と繋がる道を選ぶ者(英雄)が現れるかどうか、それがその国の命運を決める。

 では、そのような物質的ズレを乗り越える英雄はいかにして生まれるのか。その時にポイントとなるのが、意外にも物質的な時代である近代なのだ。近代は思春期においては未来の英雄の劇薬となる、が一方でそれを拗らせ続ければ猛毒となる。というのも、神を見出すためにはハイデガーの「存在と時間」やウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のように、一度論理を徹底し、論理ではどうしても追いつけない『生命=神』という神秘の壁にぶち当たる必要がある(挫折と転回の要求)、がしかし、どれだけ論理を徹底しても、この『生命』に辿り着かなければ、その人の生き方は不自由でぎこちないものとなり、むしろ近代という劇薬(猛毒)を手にする前の方が幸福だったということにもなりかねないのだ。よって、近代と付き合うということはそれほど人生を賭けたリスクがあり、近代は適切な時期にしっかりととどめを刺さなければならない対象なのである。

 神にたどり着き、英雄になるということは、実はそれほど困難で茨の道なのだ。それは答えなき答えを見つけるかのような無意味で不毛な冒険であり、最初の神と自己とをつなぐ、細くて薄い、希望とも言えぬ希望である直観だけを頼りに、そこに常に慢性的に広がっている「不安」に居座り続けることができるかどうか、そのように「不安」に耐え続け、待ち続けた者にのみ、神は姿を現す。この「不安」に耐え続ける試練のことをまさに修行というわけだが、その修行の道には多くの躓きの石が落ちている。そして、その最も巨大な躓きの石のことをルサンチマン(特に幼少期のトラウマ)と言う。我々は忙しければ忙しいほど、神と繋がりし直観(喜び)とこのルサンチマン(悲しみ)とを混同しがちになる。そして、この「不安」の中で常に迫られる、あれかこれか、すなわち喜びか悲しみかの選択において、喜びを取り続ければ神に近づくし、悲しみを取り続ければ神から遠のいていくというわけである。よって、人間の倫理はほとんどこの、あれかこれかの選択の仕方にかかってくるわけだが、実際時代を超えて人類に読まれ続けている古典というのは、そのあれかこれかの選択の仕方について描写されており、神への近づき方のヒントを現代の我々に与えているのである(禅、陽明学、国学、武士道、文芸批評)。

 「不安」から逃れるために『生命』という流動的で不安定なものを静止させて刹那的な安心を得たいという欲望(快楽=イデオロギー)に駆られることがないように、この心強い古典を常に自分のお供として身の横に置きながら、各々の現場に存在する「不安」と対峙し(自然)、毎日少しずつ焦らずに一人一人の他者と交わりながら共に静かな納得と確かな手応えを感得するということを地道に続け(言葉)、共感という小さな喜びを一つ一つかき集めてそれが次第に大きく膨れ上がり(歴史)、そしてついに神がその場に現れたと思ったその瞬間、「勇気」を持って自らの命を捨てる覚悟で神と一体化するということ(神の愛)、これが現代人に残された、神に近づき、近代を超克する唯一の方法(その最も代表的な例が結婚)である。この方法において、自分だけの流儀と家族を見つけることができれば、より一層喜びはこちらに近づき、より一層悲しみは遠のいていく。こうして、人間は好循環の流れ(芸術家=英雄としての道)に入っていくのである。その結果として、その絶対的な神の基準に相即した国家、宗教、衣食住が作られていき、世界は少しずつ、確実に美しくなっていく。ここで改めて、あの福田恒存の有名な逆説が確信的となる、「人はパンのみにて生きるものではないと悟ればよいのである、そうしないと、パンさえ手に入らなくなる」。

 正統とは何か、それは孤独で厳しい修行の中で立ち現れてくる神の愛(母)とその険しい道の歩き方(父)である。