高畑勲は元来マルクス主義の影響下に捉えられることが多かった。高畑の自然を東欧社会主義的理想物と捉える風潮は根強い。
しかし私にはどうしてもそうは思えない。
高畑は日本の自然についてこう述べている。
「放牧の伝統はなく,林業の伝統があった。温暖で降水量にも恵まれ、森林はひらきにくい山にあり、そこから運ばれた水と肥沃な土が水田耕作を中心とする日本の農業を支えた。人里近くの自然林が破壊されても、そのあとに二次林(雑木林)が育った。」(高畑勲、「木を植えた男を読む」徳間書店、102頁)
「日本人にそういう遺伝子が組み込まれているはずがない。たまたま自然との関係がそういう形になっただけかもしれない。」(高畑勲、「映画を作りながら考えたことⅡ1991-1999」、徳間書店、62頁)
高畑の指摘通り、日本人と森林の関係は密接に偶然的に結びついたものであったことがわかる。
高畑の作品を振り返ってみると「おもひでぽろぽろ」にしろ「平成狸合戦ぽんぽこ」にしろ、それらは日本特有の里山文化への、前者の場合は回帰、後者の場合は破壊と情景によって進む。高畑の問題意識を踏まえてみるならば、東映時代のデビュー作「太陽の王子 ホルスの大冒険」に見られる原始共同体もまたある一点で日本的なものへ集束しているようにも見える。
農本思想家である権藤成卿は日本の特質についてこう述べている。
「我國は實に社稷の上に建設されて居る、故に農本である。農の字を細かに味へば、國民衣食住製造の意、國民大多数の意、又た古代に於ける國民の総称である」(権藤成卿「自民民範」、平凡社、255-256頁)
高畑の作品に横たわるものは正にこの社稷自治ではないだろうか。高畑の作品に描かれる里山や生活賛美の中にはマルクス主義的な進歩論といったものは見られない。対してそれが原始共産制であるかといったらあまりに飛躍し過ぎている。取りも直さずそれは日本人特有の文化として捉えられているからだ。そういった意味において、高畑勲はマルキストである前に文化保守主義者ではなかろうか。
彼が描く作品中のキャラクター、「おもひで」のタエ子、「ぽんぽこ」のたぬき、「じゃりん子」のチエ、「ハイジ」のアルムおんじ・・・上げればキリがないが、これらはそれらの質の差はあれど、最終的に物語の中でなんらかの形で解消されるように仕向けられているという意味において闇の中にいる。最終的に彼らを救うのは土地と共同である。とりわけ「おもひで」のタエ子はわかりやすいだろう。彼女は都会の中で少女時代の悩みを解消し得なかったがゆえに農村共同体へかつての自分を連れて向かう。最終的にトシオという有機農家の青年の助力と暖かさによって農村共同体へ組み込まれ救われる。ここには今あげた土地と共同の二つがある。そしてこれは権藤成卿が指摘するところの社であるといえるし、またそれは日本人が持った特有の、偶然の産物なのである。
高畑勲の演出の遅延性に関しても触れておかなければなるまい。対比的に述べられる宮崎駿の即効性の演出(叶 精二「宮崎駿の創作論)が革命的な進歩観をもつとすれば、高畑の定点観測的な固定カメラ(叶 精二「高畑勲演出の技術考」)は伝統に対する強かさではないかと思える。高畑の演出は観客に対してまざまざと現実を見せつけるとはよく言われることだが、その現実・生活の積み重ねを文化そのものの投射作業と見ることも無理ではない。ロングテイクで映される日本人の生活に我々没頭する(劉 雅欣「「連結」される二つの世界 ―高畑勲の作品における「背景」と「モンタージュ」をめぐって 」)。高畑にとって保守すべきものは日本的な里山文化である。
高畑勲は、作品の内部においても外部においても、コミーというよりは保守的であるし、ましてやそれは日本人であるという偶然性の賛美でもあろう。
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