吉野の伯母

中尾 恵(関西支部)

 

 吉野の伯母(母の姉)は朗らかを絵に描いたような人である。

 三姉妹の長女である伯母は、祖父母らと家族経営の割箸工場を営み、私たちが訪ねていくと「今おいた (仕事を終えた) とこや」と派手な笑顔を見せながらもてなしてくれる。寡黙な男衆に代わって親戚や近所、もしかすると仕事先との付き合いも中心を担うような伯母。

 以前何かの動画で藤井先生が「親戚にひとりはこのおばさんに聞いたら間違いないというような人がいるだろう」ということをおっしゃっていた記憶があるが、まさに伯母がそうである。

 今から十年ほど前、伯母が七十代半ばの頃のこと。伯母の夫である伯父が入院し、伯母は毎日のように単車で病院に向かっていたのだが、ある時トレーラーに轢かれた。医師からは命は助かったものの、片足を切断するしかなかったという説明を受ける。

 「 因 果 据 え て や る し か な い から」。麻酔から目が覚めた伯母の第一声である。

 切断のことをどう伝えるかという家族の憂慮はなんのその。「うちの婆ちゃん、すごいな」「姉ちゃん、よぉ言わんわ」集まった一同は伯母の落ち着きぶりに泣き笑い。襲った不運を静かに受け止める伯母の胆力に励まされるような心持ちで帰路に着いた。

 その後伯母は数カ月に渡って入院することとなる。

 伯父と違う病院に入院することとなったため、それまで毎日のように伯父の元へ単車で通っていた伯母だが当然もう見舞いには行けない。伯父にどう説明するかが親族の思案するところとなった。自分のところに向かう途中の事故と聞けばショックはより大きいんじゃないか、会うことも叶わず辛い思いをさせるだけではないかと、家族が出した答えは「黙っておく」。伯父の状態が家族の顔と名前が一致しないことも増えてきたのもあってそのようなところに落ち着いた。

 「おかあちゃん最近ちょっと忙しいねん」などと誤魔化し誤魔化し数カ月。伯父は伯母の事を尋ねなかった。

 そんな状態の伯父だが、私が顔を見せると不思議と「めぐちゃん来てくれたんか」と言ってくれる。数カ月経った頃、「アレは入院してんねやろ」と尋ねられた。どう取り繕ったかは覚えていない。

 程なくして伯父は他界した。事故以来、とうとう夫婦は会えずじまいだった。

 短時間の外出ならと病院の許可を得て、伯母は葬儀には参列することができた。皆に「よぉ参ったってくれたなぁ」と葬儀での伯母は終始笑顔だった。

 伯母の家は吉野の街中ではあるものの、小高い山の山肌を切り立てたところにある。祖父の代で山奥から移り住んで割箸を作るようになった。伯父の他界に伴い箸屋は廃業することとなったが、瓦職人と結婚した娘の一家と変わらずそこに住んでいる。

 伯母が退院して少し経った頃、二〇一六年の熊本地震が発生。地震後、娘夫婦は一年近くに渡り熊本に入って復興作業に従事することとなり、伯母と孫で留守を守ることになった。孫たちもそれぞれの生活があり、日中は伯母一人になる。

 熊本の復興に従事した一家にとっての心配は、ここを地震や豪雨が襲い、この山が崩れたらどうするかだった。昨今の自然災害の増加を受けて、また年老いた親を心配する子らに言われて平坦な街中に出ていく家が増え、ご近所はどんどん減っていく。

 だがほとんど迷うこともなく、一家が出した答えはここで住み続けるというもの。そこに是非などというものはない。

 出ていった家の跡地を借りて畑にし、野菜や花を育て、今日も派手に笑ってる伯母。幻の足が痛むんだと母に泣き言のLINEを送ってくる甘えん坊なところもあるけれど、たまらなくかっこいい本物の人間をそこに見る。