昨年の真夏のことである。航程ごとの飛行高度、外気温などが前方シート背面の液晶パネルに次々と表示される航空機内の地図モニターを眺めながら考えた。現在地は奈良県上空、福岡から羽田へ向かう真夏の国内線。高度約1万1千200メートル、外気温マイナス46℃が表示されている。しばらく表示を追っていて気づいたのだが高度1千メートルごとに外気温は、プラスマイナス6〜8℃ほど変化していくようである。地熱、反射熱などの影響を受けやすい離着陸時の低高度帯においては誤差もあるのだろうが、いわゆる巡行高度帯(1万から1万1千2000メートル)をはじめとする高高度帯では、わりと頼りになる法則性があるようだ。
高度7千メートル・外気温マイナス13℃
高度5千メートル・外気温マイナス1℃
高度4千メートル・外気温プラス5℃
「おぉ、いい線いってる。」「なるほど、確かにね。」などと、小さな発見に、ひとり悦に入りながら、さらに考えてみたのである。世界最高峰のエベレストは約8千メートル(8848m)、世界最深のマリアナ海溝は約1万メートル(10920m)。確か、日本の人口の80%が標高100メートル以内に住んでいる(〈財〉国土技術研究センター)と聞いたことがある。その傾向は、世界レベルでもそう変わるものではないだろう。
とすると、人類は、いかに繁栄しているといっても地球上の起伏約2万メートルの200分の1ほどを間借りして生きている存在に過ぎない。たとえるなら我々の目から見たカビや地衣類みたいなものなのである。
一方、その種の多様性と分布域の広範さによって注目を集め、近年、国際的な研究が進められている微生物や菌類は、地中5000メートル、海中6000メートル、上空5000メートルという広大な領域にまで存在し、100℃の熱水中に生息するものもいる(〈独〉製品評価技術基盤機構)といわれている。たとえ目に見えなくても生命は、この地球上にあまねく存在し、それぞれの生活圏を棲み分けているようである。やはり我々は地球の、ある部分に生息している「小さき者」であるようだ。
ところで、よく国際系のニュースなどでドラマチックな効果音やBGMとともに「グローバルネットワーク!」などというCGタイトルが映しだされ、地球の周りをさまざまな光線が行き交い、あたかも人類が世界掌握を成し遂げたかのような全能感が演出されているが、あんなものは、まったくの幻影にしか過ぎず、所詮、地面にへばりついている地衣類が垣間見た夢のようなものなのであろう。
しかし、我々は神様から特別扱いされることが大好きなようで、人類史のそこかしこにその痕跡が見受けられる。東では「万物の霊長」(書経・泰誓上)と表現され、西では「Man is the Lord of Creation.」あるいは「神の似姿」(ともに旧約聖書・創世記)などの言葉が生まれ、現代まで伝えられてきたのである。もちろん、言挙げ当初は、威光ばかりでなく、ある種の励ましや戒めの意も込められていたのだろう。しかし言葉は記録され、引き継がれ、教訓や教義やイデオロギーを生み、ひとり歩きを始めていく。そして、今般のガザ紛争のように民族的危機感が高まると「我々は人間の顔をした動物と戦っている」(イスラエル ガラント国防相 2023年)などといった発言を通じて底流に眠っていたはずの選民思想(前提には、人間は神に選ばれた優越種であるという選種思想、つまり種差別思想がある)が噴出してくるのである。
前々から「この手の問題は、どう考えたらいいのだろう?」という疑問があり、折に触れて宗教史や哲学の文献に当たってみたが、当方の実力不足もあり、どうしても納得できる結論が導きだせずに、悶々とした日々を過ごしてきた。しかし、線状降水帯が関東地方に流れ込み、静岡〜名古屋上空付近で2時間余り旋回待機した末に羽田にも成田にも関空にも着陸できず、深夜の北九州空港へと降り立った、あの日のフライトを契機に再度、考え始めたのである。
本稿では、このように抜き差しがたい「人間と神の親密な関係」について考察していくために様々な文献に目を通していく中で偶然発見した論考『万有の塵か、万物の霊長か』(著:クラウス・ギュンツラー 訳:土橋寳 2001年)について議論喚起への願いを込めて、紹介してみたい。これは、アルベルト・シュヴァイツァー(以下シュヴァイツァー)の思想に光を当てたものであり、筆者の理解力の範囲で最も感銘を受け、腑落ちした文章である。一般的に知られているシュヴァイツァーの人物像とは、次のようなものだろう。
【アルベルト・シュヴァイツァー(1875〜1965)】
ドイツ領アルザス(当時)生まれのフランス人の神学者であり哲学者。30代後半に医師となり、仏領コンゴ(現ガボン共和国)のランバレネに渡り、医療活動に献身、病院を設立するなど住民の救済に尽力した。バッハ研究家、オルガン奏者としても有名。1952年、ノーベル平和賞受賞。
教科書的には、アフリカ大陸における医療事業への献身や世界平和への貢献などによって穏健なイメージで知られるシュヴァイツァーではあるが、その思想は次のように激烈にして、ラディカルである。(以下、引用が複雑になるためシュバイツァーをS、ギュンツラーをGと区分表記します)
S『私たちの地球は無限大の世界のなかの無限小である。それは束の間、万物のなかをぐるぐる旋回している細かな塵である。地球は宇宙のある大変動で発生し、同様の大変動でいつかその終焉を迎えるだろう。地球上に現存する生命が、万物の最終的完成にとって意義を持つはずだなどと、どうして想像したり、基礎づけたりできようか。地球の使命が、そこに発生する生命において満たされるという確信ですら、事実によって基礎づけられることはない。地球はかぎりなき時間を通してつねに赤熱する一天体であった。今日地表に発展してるような生命は、そこではたぶん成立しえなかった。生命は世界の長大なスケールからすれば、ほんの一秒前に生まれ、今後たぶん一秒間くらいしか生きつづけることができない。現在、地球上にある大気の状態がほんの少し撹乱されただけでも、生命の終わりを意味するだろう。〈中略〉というのも、地球と生命の共生関係は、はるか前からあるものででもなければ、また永遠に続くものでもないからである。私たちが地球について知っていることのすべては、地球がいつか冷え切った天体、あるいは再び熱く燃える天体として、宇宙の中で運行するようになるという可能性を覚悟するよう、私たちに強いるのである。』
そして著者(ギュンツラー)は
G『彼は、どちらかといえば宇宙の暗い像を描き、宇宙にとって意味や価値などどうでもよいのだということを強調している。と同時に彼は、倫理が納得のゆくものとなるためには、宇宙の現実と対決する必要があるとも力説している。』
と評し、シュバイツァーの次の言葉を引いている。
S『人間は宇宙の中にあって何か通りすがりのものであるかもしれないというような思想に耐えうる倫理的世界観、これだけが真に揺るぎないものである。』
さらにギュンツラーは続ける。
G『人間はもはや中心的な役割を占めるものではない。このことはそれゆえただ自然哲学的にのみ確認されるべきものではなく、むしろ倫理学の基礎づけにおいても考慮されねばならない。シュバイツァーによれば、ヨーロッパの倫理学はこの課題を看過している。すなわちヨーロッパの倫理学は、ただ「地上で人間の使命」だけが何か意義があると考え、「神という世界創造者」を「地球と人間の創造者にして主人と見なしても、世界のそれとは見なさない」「地球観」に堕してしまっている。』
私は何に感銘したのだろうか?まず、邦訳の見事さに依るところも大きいとは思うが、ある意味スピノザ的であり、また宮沢賢治的であり、当時アインシュタインにだけ見えていた「時代の知の到達点」を思わせる、壮大なテーマをこれだけ平易な言葉に変換して語りかけ、多くの人々に伝えようとする人間の知性と気迫に気押されたのだと思う。そして「一神教と多神教の違い」といった安易な解釈(かねてから富岡幸一郎氏が指摘なさっているような)に流れやすい我々の思考に、どでかい釘を打ち込まれたような気がしたのである。さらに先進の自然科学や宇宙科学上の知見を得て、ニヒリズムという回路を経由して無神論者へと至る道を拒み、あくまで人間としてその不条理を受け止めようとする、その姿に奥行きと凄みを感じたのだと思う。
だがしかし、人間たちの狂った信条(人類だけが神の使徒であり、中でも神に選ばれし民族である我々は偉大であり、とりわけ淘汰を経て生き残り、いま指導的立場にいる私たちこそが世界を改善していく使命を与えられているのだ、といった)は、揺らぐことがない。最近でも我が国の首相は、凶弾を逃れた米国大統領に同様なレトリックのリップ・サービスを行っていた。
かつてダーウィンはその主著によって生物界における人間の地位の相対化(『種の起源』:ホモサピエンスが神の子ではなくて、チンパンジーの近傍で枝分かれした種に過ぎないことを明らかにした 1859年)に成功したかのように見えた。しかし、人間はどこまでも小賢しい生き物だったのである。彼らは、そのメインセオリーである「最適者生存」を人間社会にも適用するために(とりわけ19世紀後半から20世紀初頭の列強による帝国主義的支配を擁護するために)汎用化し、淘汰に正当性を与える「社会ダーウィニズム」という思想を編みだしていった。しかも、優生思想のバックグラウンドともなったこの思想が、その後の世界にどんな惨禍をもたらしたかなど、ほとんど忘れてしまったかのようなのである。
その結果、今でも優越的な視点から世界の一元管理が可能だと信じる、頭でっかちなパワーエリートたち(何世代か前は被差別者側であったであろう、有色人種の末裔までが)の登場が後を絶たないのである。彼らは、何の歴史観も反省もなく、謳い上げる。「ワン・ワールド」なのだと。人間は心底、身のほど知らずで、厄介な生き物なのである。
神の代理人気取りのエリートたちの夢を乗せ、グローバリズムの進展とともに、また新たな人間中心主義の仮面を被って、ひたひたと進むこのような一元化や均質化の流れに我々は、いかに対峙することができるのであろうか。もとより、筆者の手に及ぶレベルの問題ではないことは承知している。
しかし、近現代における人類と神の関係とは「神を地上や身近に引き寄せつつも、先端科学が次々と解き明かしていく新たな事実に驚嘆し、あるいは現実政治の醜悪さに失望することを通じて、神に幻滅し、神を捨て去ってきた歴史」とは言えないだろうか。ヨーロッパでは20世紀後半から顕著になった傾向であるが、一般的に信仰心が篤い、とされてきたアメリカにおいてさえ2050年には、大半が無宗教になるだろうという予測されている(プレジデントオンライン2021年)。果たして神はこのまま、古びたマスコット人形のように、人間の手によって捨て去られるのだろうか?
しかし、思う。
宇宙には代表や中心点という概念はない。人間にとってそれは、暗闇の中に放り出された時のような恐怖(万有の塵になったような)を憶えさせるものなのであろう。だからこそ、我々は、そんな不条理と我々を緩衝する媒介としての人格神を発見したのだろう。そして不安や恐怖が募るたびに神を呼びだし、世俗に晒してきたのではないだろうか。
もしそうであれば、世界を認識しようと欲する人間は、世界の不条理さに怯えるがゆえに、永遠に神から離れることなどできないのではないだろうか。アインシュタインが「神とは人間の弱さの産物だ。」と喝破したように、人間はどこまでも弱く、いつまでも弱い。逆説的ではあるが、神の不在に耐えられるのは強靭な意思と精神力を持った哲学者や科学者くらいのものだろう。
だからせめて我々は、弱さを自覚し謙虚さを取り戻すことから再出発するしかないのだと思う。そのためにはまず、神々の椅子をもともと、いらっしゃった久遠の高みや、永遠の広がりの彼方へとお戻しし、もう一度、その座位に倫理的な意味づけをし直す必要があるのではないのだろうか。その際に、科学の側が「人間の小ささ」に関する事実に言及することなく、これまでのように無関心や沈黙を貫くなら、その無軌道ぶりには歯止めがかからず、やがて科学そのものの正統性は失われていくのだろう。いやむしろ、高座に着いたつもりで、ふんぞりかえっている人間の椅子こそを引き降ろし、その脚を地に付け直す必要があるのではないだろうか。
神と個々人の近すぎる関係には、他者が入り込む余地がない。光は遠くから降り注がなければ、万物を照らし出すことはできない。人間の都合で、しじゅう降臨させられていたら、神々のコモディティ化は止まることを知らない。
人間だけを自らの分身として特別扱いする、狭量な部分神から、万物創造者としての超越神へ。全知と全能を、怪しいチンパンジーの手から、神々の手へ。気持ち良く晴れた日には、空を見上げ「おひさま、ありがとう。」とでも言ってみようか。我々一人ひとりが確実にできるのは、多分、そのくらいのことなのだろう。
反動復古的な主張に映るかもしれないが、人間の並外れた認識への欲望とその限界性は必然的に相剋し、いずれ神への救いを求めることになる。シュバイツァーの筆致に圧倒されながら、そんなことを考えたのである。
林琉汰(大学生・千葉県)
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齋藤悠貴(24歳・会社員・東京都)
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山本通人(22歳・会社員・東京都)
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岩崎 新太郎 (27歳・会社員・埼玉県)
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吉田真澄(68才・会社員・東京都)
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齋藤悠貴(23歳・会社員・東京都)
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小川博幸(55歳・自営業・愛知県)
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吉田真澄(68才、東京都、会社員)
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林 文寿(岐阜支部・NPO法人職員)
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清水 一雄(東京支部)
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