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『堕落論』とその後の日本での生き方

名取(茨城県、30歳、会社員)

 

 日本は堕ちている。政治も経済も社会も文化も堕ちている。

 

 人間だから堕ちるのだ(『堕落論』)。この傑作が世に出てから、時代は下り、堕落の中で産み落とされた人が大多数を占めるようになった。偉大な政治家は昔どこかにいたらしい空想の人物となった。

多くのサラリーマンが返礼品と数万円の税金をケチるために、次のふるさとをどこにするか考えあぐねている。終電間際の混み合う電車では寝不足で青い顔をしたサラリーマンがスマホに釘付けになっている。本屋では多くの売り場が成功者たちのHow To 本に占拠されていることに気付く。

もはや私たちは堕ちていることに無自覚となりそれが自然となった。

 

 自殺はいけないと言われる。私はつい死への憧憬を口走り知人友人にたしなめられることがあるが、命の浪費という点では現代の搾取されるつまらない労働に従事して死んでいく人生と変わりはないのであって、生きることそれ自体を目的とすることには違和感を覚える。

「生きる目的はなんであるか」、私はこれまで相談の場の真剣な悩みとして、あるいは、酒場の席の与太話としてこのような心境を吐露したことが幾度もあった。しかし、そこから有益な会話が紡がれることはなく、会話の無益であることの責任の一端は私にあるにせよ、この社会の中で生きることの孤独の感を強めていった。

 

 生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真の人間を救い得る便利な近道が有るだろうか(『堕落論』)。この佳作の中で示唆された光明は、人間の柔な精神では堕ちきることはできず、いずれ堕落を食い止めるための制度なり慣習なりカラクリなりを編み出さずにはおれないというものであった。

 

 私を犯しつつあるニヒリズムの正体は、人間の軟な精神が堕落に堪えられなくなった魂の悲鳴ではないか。ニヒリズムの招来を予感せしめるのは、意識的にせよ無意識的にせよ、価値のあるものを信じていればこそである。

堕落も同じく堕落していない状況を朧気ながらに思い描けてこそ、自身が墜落の最中にあることを認識することができる。自身の堕落に気付くのは人間を救い出すための第一段階であり、そこから生の格闘が始まり、茫漠たる生の地平の中からほんの一握りの大切なものが浮かび上がってくる。そうすることで、ようやく大切なものを保守し続けるための防波堤を築くという発想に到達できるのである。

 

 しかし、私にはどうしても今の日本に光明を見ることができない。慣性系の中に居ながらにして観測者は自身の運動を認知することが困難を極めるように、堕落の中で再生産された彼ら彼女らに堕落を認識することは至難であると言える。

 

 私がこの社会で生きることの空しさを語るとき、心の片隅では期待をしていると言わざるを得ない。何を期待しているのか。

それは、彼も、彼女も、先生も、友人も、知人も、上司も、同僚も、部下も、この社会の構成者たちの心の奥底には、大小の違いこそあれ、これまで口外してこなかった、この頽廃せる社会に対する同じような悩みが人知れず横たわっており、言葉を尽くし腹を割って話せば分かってもらえるのではないかということである。

 

 しかし、多くの場合それは誤解である。この世の中で暮らす者の大多数はそのようなことを感じてはいない。

「日本はまあまあ上手く発展したじゃない。それなりに豊かで安全だし水道水だって飲めるわ。確かに一等地のタワーマンションには住めないけど私の賃貸も綺麗よ。工夫次第でQOLはいくらでも上げられる。家電は全てスマホから操作できるようにしたの。それに健康が何より大切よ。あなたもオーガニック系食品を食べるようにした方が良いわ。

そうそう、あなた資産形成はどうしてるの? え、やってないの。絶対やった方が良いわ。投資信託をすれば節税にもなるし老後資金にもなるわ。ほら、老後資金二〇〇〇万円問題ってあったじゃない。政治に期待しちゃダメよ。絶対に米株を買っておいた方がいいわ、次の狙い目は医療業界よ。世界全体が高齢化していくの。資産形成して上手く運用すれば四十代でFIREも夢じゃないわ。仕事を辞めて自由な時間ができたら思いっきり好きなことをして過ごすつもりなの。

そろそろお腹が減ったわね。あなたのバーコードを表示してちょうだい。私のアカウントからあなたを招待するわ。これで弁当の宅配が一〇〇〇円安くなるクーポンがもらえるの。あそこのエスニック料理にしましょう、無添加なの。しばらく時間があるわね、何しようかしら。あら、あなた難しい本読んでいるのね。そんな古そうな本を読んでも現代では役に立たなそうじゃない。え、そうでもない。まあ趣味があることは良いことだわ。」

 

 このような光景が日本中に広がっている。こんなところでは、精神の退廃を語ることには退嬰的にならざるを得ない。

私は合理的に生きるためにあくせくと動き回ることを嫌い、なるべくのんびりと生きたいと思うのだが、今の社会でそこそこ裕福に生きるためにはそのような牧歌的負け犬精神は削ぎ落とさねばならぬ。

人々は賢しく生きようとしている。合理精神によって生きようとしている。これが敗戦の原因を合理精神の欠如に見、次は戦争に負けぬように我が日本民族よ合理的になれ! と願ってきた戦後日本教育の誇るべき成果ではないか。

 

 不健康はつらく貧困は苦しい。私は二〇一〇年代に貧困の学生生活を送り当時の日本ではおよそ信じ難い食生活を送っていたが、社会人となり少しの自由に使える金を得るようになってからは、当時食べられなかった肉料理を食べ過ぎて今では食傷の気味である。

また、健康についても思うところがあり以前妻が少し大きな病を患った際には幸い命に別状はなかったのだが入院中は大いに気を揉むこととなった。人間はなるべく平穏無事に過ごしたい心理を持っており、これが後の堕落を招くにしても平穏無事には抗いがたい魅力がある。

 

 しかし、何のために生きるか。このことに関心が払われぬまま、現代の人たちは、ひたすらに健康に細心の注意を払い、金銭を節約し老後の資金まで気にしている。何か人間の大切なものが見落とされているのではないか。何のために生きるかなど分からぬ。それが人間だ。

実存が本質に先立つかどうかなど分からぬから、とりあえず実存が本質に先立つことにして考えてみましょうだとか、あるいは逆に、とりあえず本質が先にあることにして考えてみましょうだとか、「とりあえず」から始めることで思索が始まる。

私は先に自分の悩みは分かってもらえないと述べた。そして、今の日本に光明を見ることができないとも言った。しかし、それでもなお語らずにはおれないのだ。それこそが混迷を極める世の中で生きていくための唯一の手がかりだと考えている。

 

 とりあえず言葉を交わし続ければ、いずれ真っ当な人、面白い人、同じ悩みを抱える人に巡り合うかもしれない。

そして、ああでもないこうでもないと丁々発止、侃侃諤諤のすえ、いやもちろん多くの場合はこんな大議論にならないのだが、それでも自分なりに真剣に言葉を交わせば良く、そうすることで「とりあえず」もう少し頑張って生きていましょうかとなる。案外人間の堕落を食い止めるのはその程度のことなのかも知れない。