過去の挫折がトラウマとなり現実の一側面へ過剰に反応してしまう心理が私たちの中にはある。極度の学歴主義やブランド志向、ひいては現実否定的なニヒリズムや事実無根な進歩主義礼賛などがその一例と言えようか。
精神科医の岡田尊司は、現代人に多く見られる心理傾向を「回避型愛着スタイル」と名付けている。持続的な他者との関わりを嫌い、失敗や挫折の経験を極度に恐れ、責任や束縛を回避しようとするタイプの人物がその典型だ。が、逆に、一見すると社交的でアクティブに見える人であっても本質的にはこのスタイルを抱えているケースは多い。そこに共通して見出されるのは、その名の通り、自分以外の存在と馴れ親しむこと(=愛着)を「回避」する傾向である。ここではその心理傾向が生まれる原理的な状況について考えてみたい。参照するのはハンナ・アレントという哲学者の「意志」の概念である。
イソップ寓話にこんな話があった。ある時、一匹の狐が木になった葡萄を見つける。しかし何度も飛び上がって葡萄を取ろうとしても枝が高いところにあるため届かない。狐は苛立ちながら、「なんて自分は馬鹿だったのだろう、まだ酸っぱい葡萄を取ろうと躍起になるなんて」と捨て台詞を残して立ち去った。「I will but cannot」という経験が私たちに「意志」を自覚させる契機になるとアレントは言う。
葡萄を手に入れようとしたけれど(will)、それができなかった(cannot)。良くある挫折の経験である。しかし狐はそこから一歩進んで、今度は食べてもいない葡萄を酸っぱいものだと決めつけた。「虚構」を作り出すことによって自らの意志と現実を完全に切り離したのである。
そのとき彼は「孤立」へと陥った。これを「回避型愛着スタイル」に属する人々の「原体験」と捉えることができよう。実際、このタイプの人々には、幼少の頃、両親や身近な人々と親密な関係を築けなかった過去(=挫折)が存在することを岡田氏は指摘している。
狐が生み出した虚構とは彼の都合の良いように捻じ曲げられた現実であった。その意味で彼には、現実をあるがままに認識する能力が欠如している。と同時に、それは彼の内から倫理の感情が抜け落ちたことをも意味している。現実への手応え無くして、どうして彼が自身の欲望に歯止めをかけることができようか。残されているのはただ剥き出しのエゴである。世界は彼にとって愛着のある掛け替えのない存在などではなく、己の欲望を満たすための「手段」でしかない。
狐がそのような状況になってしまうか否かの分かれ道はどこにあったのだろう。それは彼が「I will but cannot」の経験に見舞われたとき、それでもその悲しい現実を引き受けて生きるか否かの地点にあったのではあるまいか。程度の差こそあれども、こうした挫折の経験に無関係な人はいない。だからこそ自分を拒絶した現実のせいにすることは許されない。
「最大の悪者とは、自分のしたことについて思考しないために、自分のしたことを記憶していることのできない人、そして記憶していないために、何をすることも妨げられていない人のことなのです。人間にとっては、過去の事柄を考えるということは、深いところに向かって進むということであり、自分の〈根〉をみいだし、自分を安定させることです。そうすることで、時代精神や〈歴史〉やたんなる誘惑などの出来事によっても、押し流されないようになるのです。最大の悪は根源的なものではありません。根がないために制限されることがなく、考えのないままに極端に進み、世界全体を押し流すのです。」(ハンナ・アレント「責任と判断」)
苦痛に満ちた過去の「原体験」を否定すれば、その忘却は確かに私たちを苦しみのないユートピアへと導く。しかし自己を形づくる過去の記憶を喪失し他者へと繋がる可能性をも奪われたそんな場所に、一体どれほどの価値があると言えるのだろうか。
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