『ゲーテとの対話』と教養

辻井健太郎(京都府・28歳・会社員)

 

 世紀を超えて現代に残る偉大な書物の一つに、『ゲーテとの対話』(上下巻、岩波文庫)がある。これは、ヨーハン・ペーター・エッカーマン著『その生涯の晩年における、ゲーテとの対話』の翻訳である。これはエッカーマンがゲーテから話を聞いたもので、エッカーマンの鋭敏な感受性と優れた編集の能力によりドイツにおいて、高貴な形式という点ではるか遠くへ到達したゲーテの考えが記録されている書物である。

 「われわれ老人の言うことを誰がきくかな。誰でも自分自身が一番よく知っていると思いこんでいる。それで多くの人が失敗をし、多くの人が長いこと迷わねばならない」(『ゲーテとの対話・上』五八頁)

 これは、現代日本に生きるあらゆる人々に妥当している。優れた人間の考えを認めず、ある正義に惑溺し、相対的に物事を考えることができない人間が増えている。そのおかげで、日本は最大の危機に直面している。なぜなら、優れた人間を認め、自分より高い次元からの示唆に耳をかすことによってこそ、文明は維持されてきたのだからである。もしそれが失われれば、人間性が解放された恐るべき野蛮な世界が広がるだろう。

 「後から生まれてくる人は、それだけ要求されるところも多いのだから、またしても迷ったり、探したりすべきではない。老人の忠告を役立てて、まっしぐらによい道を進んでいくべきだ。いつかは目標に通じる歩みを一歩一歩と運んでいくのでは足りない。その一歩一歩が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものでなければならないよ」(『ゲーテとの対話・上』五九頁)

 なお、ここでいわれる老人というのは、偉大な人間であり、賢明な人間であり、価値判断のできる人間を指す。しかし現代日本では、無知蒙昧な人間を賢明な人間と勘違いし、末期的人間を偉大な人間などと取り違える恐るべき間違いが繰り返されている。なぜこのような間違いが繰り返されるのか。おそらく、古典的教養の欠如であろう。われわれ現代人には、古典を体に刻みつけている者がほとんどいないに等しい。そのため、誤った理性によって知らず知らずのうちに悪に加担してしまっている。

 「生まれが同時代、仕事が同業、といった身近な人から学ぶ必要はない。何世紀も不変の価値、不変の名声を保ってきた作品を持つ過去の偉大な人物にこそ学ぶことだ」(『ゲーテとの対話・下』一五七頁)

 あらゆる時代のあらゆる天才が考え続けてきたものに自分の考えをそわせるということが、現代における思考の歪みを修正する唯一の方法なのであろう。自分勝手な分別だけで物事を判断するのは危険である。というのは、人間理性はあいまいなものであり、社会は常に矛盾を抱えているからである。すべてを合理的に割り切ろうとする時、かならず野蛮が生み出される。それは、人類の歴史をみれば明らかである。

 「一人の天才が急速にのびのびと成長するには、国民の中に精神と教養がたっぷりと普及していることが大切なのだ」
 「私たちは、古代ギリシャの悲劇に驚嘆する。けれども、よくよく考えてみれば、個々の作者よりも、むしろ、その作品を可能ならしめたあの時代と国民に驚嘆すべきなのだ」(『ゲーテとの対話・下』一七八頁)

 人間は豊かな精神と高度な教養を身につけることができれば、現在よりもはるかに幸福で自由になれる生き物である。『ゲーテとの対話』から得られる教養は、われわれ現代に生きるものにとってもっとも信頼できる導きとなるであろう。