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或る散髪屋さんにて

佐々木雅彦(41歳、大阪市、公務員)

 

 いつも髪を切ってもらっている美容師さんの指名料が値上がりし、一回のカット代が6千円を超えることになった。容姿も身嗜みへの気遣いも人並み程度という中年男の髪を切るのに必要な支出としては如何にも高い。息子が900円で切ってもらっているところなら大人も1,300円でやってくれるので、そちらへ行ってみることにした。ちなみに妻は一度美容院に行くと2万円程度は落としてくる。デフレ下の日本では誠に喜ばしいことである。
 店へ行くと先客が5、6人いて、1時間待ちだと言われた。2人の美容師さんで店を回しているので、1人20〜30分程度かかることになる。
 待機スペースのソファでしばらく待っていると、もう70は軽く超えているだろうという老夫婦が来店された。ご主人は足が悪いらしく、奥さんが腰のあたりを支えながら、少しずつ歩いてくる。
 すると、受付のお姉さん(といっても私と同年齢くらいだが)が、実にさり気なく、バーに置いてあるような腰高の椅子を店の奥から持ってきて、「ソファやと、もっかい立つの大変でしょ。こっちに腰掛けといてくださいね」とソファ横の空いたスペースにそれを置いた。
 ご主人は何も言わなかったが、奥さんは「ありがとうございます。すみませんねえ」と頭を下げた。
 私が髪を切る番になってカットする席に移った頃、受付の女性がさっと立ち上がり、「そろそろそこ、座ってんのしんどなってきたでしょ。順番もう少し後ですけど、こっちの席に移りませんか」と、ご主人を空いているカット用の席に促した。奥さんがご主人に何事か耳打ちし、ご主人は奥さんに支えられながら立ち上がり、少しずつ進む。どうにか席まで辿り着き、腰掛ける。
 「マスクは、外しといてくださいね」受付の女性が優しく言い、マスクを受け取ろうと小さな物置台を差し出す。
 すると今までほとんど口を開かなかったご主人が、「これは、外されへんねん!外したらあかんねん」と甲高い声で叫んだ。まるでマスクを外したら死ぬかのようだ。なかなか難しい御仁のようである。女性はすっと引き下がり、「そうですか。じゃあ、カットが始まったら外してくださいね」と言い、横で困ったような顔をして頭を下げる奥さんに「大丈夫ですよ」と言うかのように会釈をした。
 私は、髪を切ってもらいながら、福田恆存が列車で窓を開けてもいいかと聞いてきたおばあさんを例に出して「教養があるとはこういう気遣いができることだ」と言っていたのを思い出していた。そういう意味で、私の教養はこの女性の足元にも及ばないだろう。抽象のレベルで主流派経済学の愚を嗤う経済理論や貨幣論を少し齧ったからといって、それが何だと言うのか。
 こういう人、こういう景色に憧れる。自分が公僕の端くれとして何者かになれるのだとしたら、こういう何かを守れる人間でありたい。シャンプーもマッサージもない素朴な、あまりにも素朴な街の散髪屋さんで、そんなことを思った。
 翌日は、小学生の息子が所属しているバレーボールチームの練習試合に帯同した。試合の合間に体育館でぼおっと突っ立っていると、息子のチームメイトの女の子が可愛らしい笑顔で「髪、切りました?」と話しかけてきた。
 もう妻からも何年も聞いたこともないような言葉を突然かけられて、大いに照れてしまい、散々狼狽えた挙句私の口から出てきた言葉は「はい。」の二文字だけであった。
 修行が足りない。