御子柴晃生(農家・信州支部)
2024.10.15 掲載号:
自分は長野県の塩尻市で農業を営んでいます。歳は34、生まれも塩尻市で、農業の研修のために県内の別の町に5年間住んだ以外はずっと塩尻市の「広丘」という場所に暮らしてきました。
11年前に農園を立ち上げるとき、園の名前に「広丘」の字を入れました。そのくらいにはこの場所を好いているといって良いかと思います。ですが、自分はこの場所に対して「我がふるさと」などとは素直に言いたくありません。と言うのも、歳を重ねるにつれ、眼に見える町を「良い町」「美しい」とポジティブに思えない、本当にここは自分の故郷なのかと思う気持ちが強く、深くなってきているからです。
僕が物心ついた頃から町は発展してきました。どこの町も似たようなものかと思いますが、自然や古い建物、道、その時の世間の価値観に合わない「不潔」なものは壊され忘れられていく一方で、便利な道路、店、そのときの世間の空気に合った「きれいな」「合理的な」町へと変わっていきました。
そのことを快適だと感じていたことは確かにあります。しかし過去を思い起こすと記憶を新しくするほど不快に思うことのほうが多くなってきます。
具体的に書くと長すぎるため割愛しますが、3つほど挙げると、近所に陸橋ができたことにより通学路が変わり、下校時間の短縮による友達との時間の減少。高校時代、さぼり場だった公園の池の水を抜かれ、木々を切られたこと。国道沿いに次々できるパチンコ屋とその看板(田畑の中、うちの田んぼの近くにも立っている)。
なんだ、そんなことと思うでしょうが、僕にとっては故郷を想う際にこんな具合の細かい体験が重要な事なのです。
こんな町になってきた、してきた、そんな人々の中にいて、自分もその一部と思うと嫌になりなす。「こんな町知るか」という思いがわいてきます。今「在る」故郷と自己を切り離したくなります。
時々、故郷はまだ在ると感じることもあります。少し前、陸橋ができる以前の小学校の通学路を歩いていると、かつて僕が悪戯した道路脇のポール(塗装前に木の枝で落書された)を見つけました。懐かしみ苦笑すると同時に、なぜか涙が込み上げてきました。
自分の中に故郷が「在る」と感じられることが好きです。嫌なことばかりですが、時々起きるその瞬間は得もいえない幸福感です。眼に映る明確な故郷はなくとも、自分の精神と身体で感じられる故郷が在れば良い、それを感じ取れるように、故郷への絶望に飲まれないように日々を生きていきたいです。
新年、能登半島において大きな地震がありました。被害にあった人々とその友人知人、壊された町々と営みを想うと胸が苦しくなります。
自分は如何なる復興についても、被災前の人々の営みを取り戻すことが大原則、もっと言えば、長い時間をかけて失われてきたものを思い起こしていくことだと考えます。
しかし巷では、もともと限界的な地域の復興は程々に、移住を「勧める」、財政的に「合理的」、「コンパクトシティ」等々の復興案があり、それについて「賛否両論」とのことのようです。聞けばある議員が初めに提起した案だとか。それを聞いて「この国は自分の故国か、自分はこの国の人間か」と混乱しました。
自分は地震からの復興のような巨大な事業に携わったこともなければ、経済も財政も聞きかじりです。街づくりに関してもさっぱりです。しかしこんな僕でもわかるのは、復興を成すのはその地に住まう人々だということです。
外部から助力があったとしても復興の核となる力はその地の人です。大切なものを失い、それでも前を向いて生きていこうとするとき、立ち上がり、一歩踏み出す力となるのは「取り戻そう」という強い意志に基づき、故郷と人々が一体となっていく感覚ではないでしょうか。
上記のコンパクトシティ云々の案は「取り戻す」の後の三次四次的な話で、地震後1カ月もたたずに出てくるとはおどろきました。この案が人々の力を呼び起こすとは、前に進むための力になるとは到底思えません。
見聞きする故国は、故郷・広丘と同じく失われていく様子があります。これからも日々の中に「まだ在る故国・故郷」を求めていきたいと思います。
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