2018.07.16ON AIR
1975年リリースのアルバム『オペラ座の夜』に収録された、クイーンの代表曲。
クラシックの「ラプソディ」(狂詩曲)の形式で構成された楽曲で、アカペラからはじまり、バラード、オペラ、そしてハードロックへと展開し、最後に再びバラードで修了する壮大な展開の一曲。英国では、ビートルズやレッド・ツェッペリン、エルトン・ジョンなどを抑えて、「イギリスで最も売れた曲」でありかつ、人気投票で「最高の曲」に選ばれている。人殺しをしてしまった若者が、途方に暮れて「ママ、どうしよう――」と泣きつくところから始まり、様々な葛藤を経て、最終的に「僕は大丈夫さ、何も問題ないさ(nothing really matter)」と哀れにも自分に言い聞かせながら終わる。神からの罰を免れ得ぬ犯罪者の精神を描いたこの一曲は、ヒットした途端に社会現象を巻き起こし、多くの若者の自殺を誘発してしまったという。まさに映画を一本見るかの様な展開が、多くの若者の精神に響いたわけだ。罪を犯したにも関わらずのうのうと生きる輩ども全員に届けたい一曲。
2018.07.10ON AIR
ハードロックバンド Led Zeppelin が、1975年にプログレッシブロックを強烈に意識しつつリリースした名曲「Kashmir」を、ヒップホップシンガーのパフダディがアレンジした一曲。1998年のアメリカ版ゴジラ映画のテーマ曲としてリリースされた。その基調となるギターリフは日本版ゴジラのオリジナルテーマ曲と似て、ゴジラという途轍もない危機がまさに今、迫っている様子を彷彿とさせる。今の日本は、そんな危機を敏感に感じ取る動物的感覚を未だ保持し得ているのか―――?
2018.07.03ON AIR
哲学的とも言える前衛的な楽曲で70年代に世界の音楽シーンの帝王の座についた、プログレッシブロックバンド、ピンクフロイドの代表曲の一つ。ピンクフロイドで最大のヒットアルバムは、マイケルジャクソンの「スリラー」に次ぐ歴代第二位の記録を打ち立てた「狂気」だが、この原題「One of these days」は1971年リリースの『おせっかい』に収められている。これはインスツゥルメンタル曲だが、まさに「嵐」が猛威をふるい始める直前に「One of these days, I’m going to cut you into little pieces!」(その内、お前を細切れに切り刻んでやる!)という、地獄から響き渡るような声で叫ぶ「超巨大地震」の様な破局が、「これからの何日かの内の一日おこるんだ」ということを不気味に暗示する曲だ。日本では、日本中のプロレスファンを恐怖のどん底に突き落とした希代の悪役プロレスラー、アブドーラザブッチャーの入場テーマ曲としてよく知られた一曲だ。
2018.06.18ON AIR
ナショナリズム(国家主義)というのは、その語源をたどると「生まれた土地を大切にする主義」。なぜなら、ナショナリズム(nationalism)の「nati」は「生まれる」ことを意味し、「ネーション」とは、「生まれた地」を意味する言葉だからだ。そして人はその土地が産んだものだと考えるのなら、ナショナリズムとは究極的には結局「自分を産んでくれたものを大切にする生き方や考え方」を意味するものとなる。「自分を産んでくれたもの」とはすなわち、「母」という存在そのものである以上、ナショナリズムの最も深いところにある心情は、「母に対する思い」そのものだということもできる。かりゆし58の「アンマー」(沖縄の方言で母)は、そんな「母に対する思い」を最もストレートに歌いあげた一曲。だからこそ、この曲に心を少しでも動かされる者は男も女も皆、「ナショナリズム」の根幹をその体躯を通して理解していると言えるのであろう。
2018.06.05ON AIR
AC/DCの1979年の同名アルバムに収められたシングルカット曲。初代ボーカリスト、ボン・スコットが不慮の死を遂げる直前にリリースされた彼の遺作。「気楽に生き自由を愛する・・・おれは地獄へのハイウェイをぶっとばしている 止まれの標識も制限速度もない 誰もおれを止められない 誰にもジャマはさせないさ」。一旦乗ったらもうどこにもいけない、地獄に向かって一直線にぶっ飛ばしていく―――この破滅的な彼らと、行く先には地獄しかない「緊縮路線」をひた走るエリート達と一体何が違うというのか?どちらも行き着く先は「地獄」しかないじゃないか。彼らの間に違いがあるとすれば、エリート達は、本物の享楽的な刹那を一度たりとも体感したことがない、と言う点なのだろう。それが故にエリート達は、その精神の奥底に本物の「地獄へのハイウェイ」を突き進む様な享楽的に生きる奴らに対するルサンチマンを常に隠し持ち続けているのだ。そんな、蛆虫どもの道連れになるなんて、まっぴらゴメンだ、だったら俺たちは地獄に向かって楽しんで生きていくさ――この曲の直後に、まさにクルマの中で不慮の死を遂げたボンスコットの叫びの根底には、そんなポジティブなニヒリズムがあるのかも知れない。
2018.05.28ON AIR
1973年にリリースされたエルトン・ジョンの代表作。大都会ロンドンの暮らしにおさらばして田舎に意気揚々と帰る。「きみのいうなりにはならないぞ、自分の道をいくんだ」、そう言いながらくだらない大都会暮らしに別れを告げ、自分の大好きなあの田舎に、「ようやっと帰れる」という心情がすがすがしく歌われる。「爺さんのいうこと」を聞かずに都会に出てきた自分の馬鹿さ加減を振り返りながら、ふくろうのいるあの森に帰ってがま蛙を追いかける――そんな田舎に胸を膨らませる。地方からの「Uターン」が「都落ち」や「負け犬」という気分によって阻害され続け、「東京一極集中」「過疎過密」がいつまでも終わらない日本――対照的に、これだけ意気揚々と田舎に「自分の道を行くため」に帰る歌が大きな国民的支持を得られる英国では、いつまでも美しい地方の田園風景が守られ続けられる。日本が「東京一極集中」を抜け出すきっかけを見いだすヒントとなる一曲。
2018.05.22ON AIR
(※ この曲の解説は、表現者criterionメールマガジン『週刊ラジオ表現者、今週の一曲は『命の別名』です。』
https://the-criterion.jp/mail-magazine/20180521/
をご参照ください。以下、抜粋します。)
・・・この曲は「高校教師」や「家なき子」「人間・失格」の野島伸司が脚本を書いたドラマ「聖者の行進」の主題歌として、中島みゆきが直々に書き下ろした一曲。
で、このドラマは、「知的障碍者」が周りの大人たちに虐げられ、搾取され、それに対抗できない無力な姿を描写したもの、でした。
まずはその歌詞をご紹介します。
『知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある
何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えてゆく
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい
石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
僕と生きてくれ
くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも 全ての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも名もなき僕にも
たやすく涙を流せるならば
たやすく痛みも分かるだろう
けれど人には
笑顔のままで泣いてる時もある
石よ樹よ水よ 僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ
くり返すあやまちを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも 全ての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも名もなき僕にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも名もなき僕にも』
・・・
このドラマは確かに「知的障碍者」を扱うドラマでした。
ですが、誤解を恐れずに言うなら、「まじめに生きる(若)者たち」は、不真面目に生きてきた大人たちの世界の中では、「知的障碍者」と同じ立場に置かれています。
なぜなら、「心」を亡くした大人たち、年寄り達は、意味のない、空疎な言葉をもてあそんでいるからです。
オフィスで、学校の教室で、官庁街で、国会で、そして、テレビやラジオ、挙句には家庭の中ですら―――。
そんな「大人たちの世界」の中は、心ある(若)者たちにとっては、
「最後まで覚えられない言葉」
で満たされています。
だからこの歌の主人公はこう口にするのです。
「知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある」
つまり、「心」をまだ失ってはいない(若)者たちは、「大人」ならば誰でもたやすく口にできる、出世や金儲けやマウンティングや媚びるため「だけ」にある「心」とはなんの縁も所縁もない言葉を上手く操ることが「できない」のです。
だから、当然、心ある(若)者たちは、孤立していきます―――。
でも、この世に生まれ落ち、そして「心」を持つものならば誰もが
「何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えてゆく
僕がいることを喜ぶ人がどこかにいてほしい」
と思わないわけにはいきません。
だから致し方なく、この(若)者は、こう心の中で叫ぶのです。
「石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ 僕と生きてくれ」
この世の「立派な大人たち」がすべて、「空疎な言葉を操る、空疎な大人」であっても構わない、せめて、石や樹や水、そしてささやかな者たちが、私と共に生きてくれればそれでいい―――。
つまり、共に生きるものが、ささやかな者であってもいいし、それが難しいなら石でも樹でも水でもいい――
この(若)者は、そこまで可能な限り、極限にまでささやかなささやかな、小さな願いを持つだけに留めているのです――。
ただし、それでもなお、絶対に譲れない「一線」がある。
それこそが、「心」です。
「心」さえあるなら、
過ちがあってもいいし、
哀しみがあってもいいし、
私や貴方の名前すら要らないし、
わたしやあなたの区別すら要らない――
でも「心」なきものなら、
あらゆるものを絶対に許さない。
だから、中島みゆきは心を震わせながら、こう大声で叫ぶのです。
「くり返すあやまちを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも 全ての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも名もなき僕にも」
・・・この詩、そして歌は、きっと、「心」ある方ならば、若者であろうと年配であろうと、その「心」を必ず「灯す」力をもっているのではないかと――思います。
(以上、抜粋終わり)
2018.05.15ON AIR
数多くのミュージシャンにカバーされている1993年のスターダストレビューのシングル曲。「いつまでもいつまでも そばにいると言ってた」彼。その彼が「幾度目かの春の日 眠る様に 空へと旅だった」。きっと彼が「いつまでもいつまでも」という言葉を口にしたとき、彼は一点の曇りも無く純粋な気持ちであったに違いない――それを彼女は、知っている。しかしそれは、この現実の世界の中で「ウソ」になってしまった。そのウソが無ければ、そしてそのウソが純粋なものでさえ無ければ、彼女は「いつまでもいつまでも」「逢いたくて逢いたくて・・あなたを探している あなたを呼んでいる」と想い続けることは無かったかも知れないのに――「純粋」であればあるほどに人を傷付ける――そんな逆理を暗示する一曲。
2018.05.08ON AIR
1997年にリリースされたスガシカオの2枚目のシングル。ゾッとする「ウソ」を描いた一曲。長く付き合っている間に、徐々に冷め切ってしまった男性、そのことを言いそびれている内に何となく結婚―――そして彼はこう歌う「君の願いと ぼくのウソをあわせて 6月の夜 永遠をちかうキスをしよう・・・ぼくの未来に 光などなくても」そして挙げ句に彼はこういう言葉を口にしてしまう「君のあしたが みにくくゆがんでも」。結婚できる喜びに満たされた六月の花嫁――しかし彼女の目の前にいる男は彼女の事を愛してなどいない。その花嫁の未来が醜く歪むことになることは、その六月の結婚式の日に約束されている――そんな、筆者が知る限り、最も「ゾッ」とするウソを歌い上げた一曲。