華夷思想と日本

橋本由美(68歳、東京都、無職)

 

 緊張感を増した世界情勢下で、この国が独立国家として存続するのか不安になることがある。日本が日本であることはどういうことなのか。世界を敵に回し始めた中国に近いという地理的条件は、日本をどのように変質させるのだろうか。
 習近平の覇権主義が顕在化したことによって欧米各国では中国に対する警戒感が生じ、コロナ・パンデミックはそれを更に強めることになった。とくにアメリカでは、中国共産党を主な攻撃対象としている。しかし、彼らを嘗てのソ連のボルシェビキ共産主義と同等に見做すことはできない。共産主義というより、寧ろ華夷思想そのものではないだろうか。
 春秋戦国時代に形成された華夷思想は周の衰退がもたらした時代の要求であり、新たな支配秩序『礼』を以ってそれまでの種族的(血族的)な差別意識を打破しようとしたものである。『礼』は外形を以って内心を正すもので、支配層である『華』を敬う態度を強く要求する。『華』と『夷』は明確に差別されるが、『夷』を排除するのではなく、『夷』を変質させて『華』に近づけることで包摂していこうという意思がある。
 『礼』は本質的に階層的で差別的である。天命による皇帝の価値は無謬なものとして人為による法の上位にあり、皇帝の徳を敬う実行形態である『礼』の秩序に周辺国を組み込もうとすることは、支配意欲の表れと言える。
 中国の華夷思想は、その始まりから他の価値を認めない全体主義的性格が窺える。
 
 西洋的なグローバリズムは、ディアスポラの一つの帰結であると言えないだろうか。ディアスポラの価値観の実現にはグローバリズムとコミュニズムがあり、一方は経済的利益の追求、もう一方はイデオロギーによって、地域的国家を超越しようとする。富の蓄積と富の否定という両極端の方向性を持ちながら、どちらも一つの価値観の下で国家を超えて勢力範囲を拡大しようとする。
これに対して、華夷思想には中核に地域としての国家がある。私たちが環境として捉えている比較的広範囲な社会を形成している集団の多くは自然発生的なものであり、時代を超えて存続している。自然環境の違いや文明の特殊性に拘らず、その集団を構成する人々の間で、同じ歴史観や言語習慣宗教などを共有しているという点ではどれも同じである。同じ物語を共有している集団と言える。中国もそういった地域的集団から発生している。しかし、それが一個の強大な覇権国家の成立によって、周囲を『礼』の価値観に収斂させようという意思を持った時点で、地域性を否定したグローバリズム的な古代国家となったのではないだろうか。

 中国では、資本主義と社会主義は対立概念ではないのかもしれない。
 『華』はもともと国家の中枢であり、その勢力(徳)が全世界に広がることが正しいという思想である。これは帝国であって、共産主義国家ではない。しかし、『華』以外に価値を認めずに全人民を支配しようとするのに、共産主義的統治は相性がいい。
法の上位に『礼』という支配秩序があれば、法によって実行される経済活動もまた、『礼』の秩序に服従することになる。彼らにとって、資本主義も進歩史観の段階にある様態ではなく、『礼』を支える手段である。
 資本主義的な富の蓄積も共産主義的イデオロギー支配も『華』の階層秩序の実現に利用できる。
 
 ノブレス・オブリージュのような考え方は、歴史上封建制を経験しなければ育まれないのかもしれない。狭義の封建制は封土を介して行われる。封土にはそこで暮らす民がセットになっていて、統治者には土地に住む人々に対する責任がある。皇帝と官僚という受益集団による統治では、彼らの権利のみが存在し義務はない。市民の権利や民主主義は、統治者の義務という発想のないところには生まれない。
 華夷思想には、統治者が人民に責任を持つという考え方はない。民は統治者のためにあるのであって、民のために統治者がいるのではない。戸籍の差別や漢化政策は、華夷思想の反映と言える。チベット・ウイグル・モンゴル・香港で起こっていることに罪悪感を持たないのは当然なのだろう。キュロス2世のアケメネス朝ペルシャ帝国は、諸民族に対して比較的寛容な態度を示したことで繁栄した。IT技術と結びついた中華帝国の不寛容さに、世界はどこまで耐えられるだろうか。
 
 海洋国家群と対立した中国がどの程度覇権を伸ばせるのかは不明だが、近隣国家としての日本にとって、少なくとも中短期的な脅威は存在する。華夷思想の下では、日本もまた、二千年も前から中華に併合されるべき地域の一つであった。華夷思想では、中華以外は全てチベットやウイグルと同等な『夷』である。力関係が圧倒的に有利になれば、理由など関係なく、日本を支配下に置くことに躊躇しないだろう。彼らにとって、周辺を『礼』の秩序に組み入れることは、疑問の余地もない自明の行為なのだ。西洋的な民主主義も人権も、日本人の考える国際正義も通用しない。アメリカが敵視する中国共産党が崩壊したとしても、中国に二千年以上受け継がれた華夷思想が、次の権力者の下で消滅する保証はない。
 日本の何を守りたいのか、どのような国家でありたいのか、感情に捉われない成熟した議論が必要なときに来ている。国家としての日本が消滅するとはどういうことなのか。国家を持たないディアスポラはユダヤ教という信仰によって結束を保った。日本が国土を失ったとき、確固たる自覚と凛然たる態度を持たなければ、集団の物語も記憶も消滅するだろう。