日本にしかないもの

佐藤龍太(34歳・フリーター・神奈川県)

 

 渋谷にほど近い池尻大橋で育ったので、小学生の頃の放課後、僕は友達とよく渋谷に遊びに行った。街にはガングロギャルも沢山いたが、昔から旅行客も多く、特にハチ公口の広場は人気でみんなカメラや写真を撮っていた。

 子供の頃は、そうした外人の観光客を不思議に感じていた。観光では何かしらユニークなものを見に来るはずだけれど、あの交差点、別に何も特別なものはないのにと思っていたのだ。

 歳を喰って、死体みたいに使えないおっさんになった僕は、今日久しぶりに渋谷へ行って、スクランブル交差点に感動する外人たちの気持ちがわかった。自分の国じゃないと思えば、渋谷は最高の読者からの手紙 175 読者からの手紙観光名所だ。

 駅に降りて、渋谷の懐かしい雰 囲気を思い出していたけれど、JRの改札を出て例の交差点を歩くともう異次元の中にいた。渋谷では、道行く人の、一人ひとりが完 璧にシンボルを表現している。人の、一人ひとりが本当に記号のようなのだ。

 颯爽と歩く北川景子似の美女に目を奪われてると、前から来たエグザイル風のちょい悪イケメン集団に肩を弾き飛ばされる。

 アニメみたいな服を着た蒼い髪の少女が、センター街の中に吸い込まれていくのが見える。

 格闘ゲームから飛び出したようなスカジャン金髪のタフガイが肩で風を切って歩いて行く。

 アシンメトリーで片目を隠したかっちょいい優男は少女漫画から来たのだろうか。

 ちょっと歩けば、ゲスの極み乙 女みたいな大学生八人くらいとすれ違って、その間に、あいみょんみたいな女の子一〇人くらいとすれ違う。

 資本主義による大衆化と規格化 があまりにも進み過ぎていて、人間が商品と一体化しているのだ。

 天空の城ラピュタのムスカは「見 ろ、人がゴミのようだ!」といったが、渋谷はもっと衝撃的で「見ろ、人が既製品のようだ!」と叫び出しそうだった。

 僕は渋谷の街で爆笑しながら、 記号の人たちの間をすり抜けた。

 共通しているのはみんなすごくきれいだということだ。化粧品で手入れしている顔と、ぜい肉のない引き締まった体と、毛先まで計算された髪型と、テレビと雑誌から切り抜いてきたファッションで、本当にすべてが既製品のよう。みんな絶対自分がどっかのカタログに載ってないと気が済まないのだろうか。

 結局、外人はやっぱりユニークなものを見に、渋谷まで来ていた、ということだ。この国でもっともユニークなものとは、実はカタログ人 間たちの大行進なのだから。人間のような規格品が、本当は最も個性的であるという逆転の発想。教育の偉大な勝利である。

 井の頭線と銀座線の間の連絡口に岡本太郎の絵があって、そこから駅前を一望する。なんでも買え買えうるさい看板やディスプレイに囲まれたスクランブル交差点の周りに、カタログ人間たちが集まってきて、 信号が青になった瞬間、いっせいに中心に集まり、一人もぶつかることなく、またすれ違い、散っていく。僕は思わずため息が漏れた。もちろん動画も撮って保存した。

 近代の最先端はアメリカでも中国でもなく日本である、ということ。終わっている光景だけれど、あまり悪い気はしなかった。