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保守的態度とは何か

林 文寿(43歳・NPO職員・岐阜県)

 

  偉大な保守思想家と呼ばれる人々が残した言葉には、魅惑的な響きがある。例えば、クライテリオン三月号見開きにあるオルテガの言葉「高貴さは、権利によってではなく、自己への要求と義務によって定義されるものである」。この言葉から受ける熱のような感覚は何処から来るのだろうか。

 保守思想とは一体どういうものなのか。保守とはどういう事を指すのか。一体何を、保ち、守る事をいうのか。保守と表現しても、ヨーロッパでいう保守とアメリカでいうそれは単に同じとは言えないようだ。そこにはその土地が綴ってきた歴史が大きく影響するものであり、その土台から流れ出す、文化、伝統などの行動様式の違いが根本にあるからだろう。

 一般的にこの国で保守と言えば、右翼と混同されている事が殆どではないだろうか。右翼自体の定義も深く理解できていないのだが、端的にいって変化を許容しないということだろうか。戦後の教育や言論空間では、左翼(先の定義からすると、 変化を拒む事を許容しないこと)と言われる思想が覆っており、変化を拒むものは味噌もくそも右翼という枠に嵌められてきたのではないか。その結果、庶民レベルでは保守という思想が深く理解できないことになったように思える。街宣車でけたたましく軍歌を流す極端な右翼と同一視され、保守主義などには関わりたくない忌避すべきものと成り下がってしまったのではないか。

 左翼(啓蒙思想)が人間の限界を取り払っていくことで、目に見える現実は便利で快適となった。この私などその恩恵に存分に与り、食うに困った経験はないし、不条理な暴力に晒された記憶はない。ただ、人間の限界を取り払い続ける事が、魂から湧き出る幸福の感覚に必ずしも繋がる事になるのだろうか。大いに疑問がある。人間はオギャーと生まれた時から、人権があり、平等であり、虐げられる事はあってはならない。本当にそうだと思う。そうであってほしいと願う。しかし、本当にそうなのだろうか。何がその権利とやらを作り守ってくれるのだろうか。この日本 国では、国家がその責任を負っているはずだが、そもそも国家とはどういうものだろうか。それは一体何故存在しているのだろうか。誰が作ったのだろうか。誰が維持しているのだろうか。

 自分が立っているこの場所。生まれてから現在まで生き続けてきた時間。結局それらは、自分が0か ら作ってきたものではなく、与えられたものだったと考えるのが自然で ある。自分(好むと好まざるに関わらず)を作ってきたのは、土地であり言葉 (歴史であり文化)なのだ。そういう意味で自分を作ったものを保守する態度とは、言い換えれば自分を肯定する事、生い立ちからの自分の生き方を肯定する態度となるのではないだろうか(土地や言葉を肯定し保ち守る態度)。左翼的な言動に何処か胡散臭さや、冷笑的なものを感じてしまうのは、歴史も含めた自己を否定している部分があるからではないかと感じる。啓蒙思想的な美麗で壮大な言葉を語っても、そこには大事なものを煙に巻いて、自己を益々空疎に導いてしまう気がするのは私だけだろうか。幼少 期には自己肯定感を高める事が大事だと言われるが、そもそも人間 の土台であるはずの日本社会にその自己肯定感とやらが成り立たないとすれば、それが国民、個人にどれだけの影響を及ぼすものだろうか。今の日本人を見ていると根 本的な自信の欠如から、承認欲求とやらを求めて、数字で測れるものに一喜一憂し、益々孤独を深めているように映る。他者の物差しではなく、自分というもののエビデンスとは最終的に何なのか(証拠というものを出す時点でそれが野暮で誤りなのだ が)。それは想うに、痛みを感じる身体を持ち、自身で思考する為のこの言語を持ったもの。それが自分であり、どう足掻いてもこの事実は否定しようもない。それからしか 立ち上がれないのだ(それが人間に生まれた宿命であり悲劇なのかもしれない)。 自分が育った歴史や文化がどういったものなのか、よく考えもせず、 それらを否定していく作業は、結局自分を否定することと同義なの だろう。

 全ての変化を闇雲に拒む事は、 保守の態度とは相容れず、保守主義とは漸進主義とも言われる。変化を選んだ結果が最終的にどのように現れるのか、選んだ時点で知る事はできないが(それは人智を超える部分もあるので諦念の部分も必要だろうが、その後の微調整、上手いハンドリング、そういうのを良い政治と呼ぶのではな いか)、変化を受け入れた責任を取る態度が必要ではないか。結果がどうあれ、最後に自分を認めるとはそういうことであり、自分を偽り責任放棄する事は、肯定には繋 がらないだろう。変化に対する保守的な態度とは責任に対する姿勢ではないか。

 過去より現時点まで、積み重なってきた自分という時間を、自分を超えた次の時間(次世代)に受け渡すために必要な事。インフラなどの現実的な社会基盤を整える事は勿論大事だが、形而下ではなく、その土地が紡いできた形而上的なものをきちんと受け渡していく事も、同じように重要な事ではないだろうか。その土地の伝統と 呼ばれるものは、その所作などの型を通じてそこに形而上的なものを残してきたのではないか。目に見えないものに対し尊ぶ気持ちを持つことが、保守的な態度ではないだろうか。形而上的なものが身体的なものにしっくり来る感覚がある事で、自分の生き方を自然と肯定でき、この存在を認めることになる (この部分は知識の次元ではない体験的なもの、あるいは自ずから備わっているものなのか)。それは過去から自分へと続いてきた祖先の生き方を肯定し、 感謝の念を感じられるように自ずとなってゆく気がする。その時、 自意識の檻から解放され、自己よりも大きな存在への畏怖を抱くよ うになり、それゆえに他者への敬意という感情が生まれてくるのではないか。他者への敬意という感情 があるならば、自分に対する驕りは幾分抑えられて、真摯になる事もできるはずだ。そんな感情がある水準で維持できていれば、それほど迄には狂った社会にはならない 気がするのだが。人間の限界を取 り払っていくことで、身体の生々し さを極限まで削ぎ落とし、そして言葉の意味や重みがスカスカに軽 なってしまった令和のこの時代。 それに伴い他者への敬意という感情もあらかた蒸発してしまったように思えてならない。

 右に述べてみた、保守的な態度、生き方とは現代社会においては、結構骨が折れるものだろう。 それは世間の濁流に只々流されな いように、“ここ”に踏みとどまろうとする意志、態度なのだから。そこには流れに流されず踏みとどまるための己の“軸”が必ず要るのである。

 保守的態度とは、

 ①自分の存在を否定せず認める。それは過去から自分へと続いてきた祖先の生き方を肯定し認めること。

 ②変化を受け入れた場合は、変化に対する責任をも受け入れる態度を持つ。選択した自分を肯定するとはそういうことであり、選択に対する責任放棄は大人ではない。

 ③文化伝統の持つ形而上学的なものを尊ぶ感覚を養う。そこ から大きなものへの感謝が生まれてくる。

 ④他者への敬意を持つこと。それは周囲にも広がり、過去や未来にも広がっていくはずである。