空っぽの日本人

高田ゆり子(44歳・会社員・富山県)

 

今年5月の小学校運動会は半日で開催される。2019年までは何の疑いもなく朝9時~午後3時頃まで開催されていた。コロナ大騒動期間中の20~21年は平日に分散、23年は土曜の午前中の時短。保護者は1~2人までの人数制限。理由は「感染対策」の為。

だが、今年度は時短の理由は連絡されなかった。

教頭先生に尋ねた。「コロナは関係ない。子供達の負担軽減の為。熱中症等の懸念もある。」と回答。「子供達の負担軽減」。この言葉を教頭は何度も使った。だが学校はこの3年、暑い夏も、登下校中も、子供達に表情と普通の呼吸を奪う常時マスク着用をさせ続けた。「負担軽減」と言うなら、子供の尊厳を傷付けるほどの過剰な「感染対策」に対し、「先生」という「子供の専門家」の立場から世間の「空気」を読まず異議を唱え、負担を軽減させてあげてほしかった。

「公立の学校なので、国の方針に100%従う。」と昨年度、校長は私に言った。しかし国は感染対策を「推奨」しかしていない。学校や世間は「推奨」を「ルール化」し、未熟な子供にまで指導し実質「義務化」した。国は義務化しないことで自らの責任を回避。世間の義務化状態を放置しそれを利用した。「3月13日からマスク着用を個人の判断に委ねる」と政府が言ったことがその証拠だ。3年間ずっとただの「推奨」で任意だったことが世間で認知されていたなら言わなくても良いことなのだ。

話は運動会に戻る。「誰が半日開催の決定を?」教頭に尋ねると「教員達で決めた。PTA役員から半日開催で良いのではという意見”も”あった。また、半日でも運動会の目的を達成できることがコロナ禍の縮小運動会を実施し分かった。」ということだった。「子供達はどう考えているのか?」尋ねると「それは聞いていないし、子供には聞かない」。

私は学校に不信感を覚えた。少なくともこの3年、子供が主役の学校という場で、物事が子供中心で考えられてなかったのではないか。「子供の負担軽減」を何度も繰り返し使ったのは「教員の負担軽減」と自ら言わない為なのではないか。過剰な感染対策に学校に対し疑問を投げかけても「国が、市が、校長会が」と言うばかりだった。出来上がった世間の「空気」に従うばかりだった。せめて、本来の教育の目的「周囲の雰囲気に流されず、しっかりとした考えを持つこと、そうした一人前の大人になれるようにすること」を忘れないでほしかった。世間はこうだけど、自分でよく考えてみよう、と子供に伝えてほしかった。

最近よく耳にする「先生の働き方改革」には賛成だが、子供主役の行事を短絡的に縮小する以外に何か違う方法もあるはずだ。特に運動会は親もPTAも先生も、子供達も大変だ。しかし、力を振り絞って最後までやり抜く経験を得られる。勝っても負けても一生懸命やれば子供時代のかけがえのない思い出になる。自分は運動が苦手で内向的な子供だったが、皆で一生懸命になれる子供時代にだけ与えられた特別な運動会が大好きだった。ぴしっと歩く行進すら好きだった。

SNSにこのことを投稿すると「こんな親が先生の負担を増やす」「運動会嫌い」「お弁当準備大変」「半日賛成」「無駄」こういう反応が7割ほどだった。中学も働き方改革で部活は週合計4時間、休日活動なし。子供達が勉強以外で子供時代にできる「一生懸命」の経験は減るばかりだ。

教育の予算を増やし、先生を二交代制にする等、教員の負担を減らしつつ子供に様々な経験の機会を維持する方法があるのではないか。働き方改革の「空気」に水を差すつもりはないが、あまりに大人中心なのではないか。このままでは「空っぽの日本人」が作られ続けるのではないか。こんなことを心配する少数派の自分は時代錯誤なのだろうか。