人としての合理性と宗教性

StudentのK(35歳・公務員・茨城県)

 

 皆様は公理設定のアポリアという言葉をご存じだろうか。

 これは端的に言うと数学で用いられる言葉で、その正しさに根拠が必要ないもの(公理)を設定することである。これが必要な理由は、基本的に正しさを主張する際には、その正しさの根拠も主張することとなるが、そうするとその根拠の根拠も主張する必要があることから、無限後退や循環論法が生じてしまう。これを食い止めるためには、その正しさに根拠を置かない論理の始まりを定める必要があるからだ。

 これは、合理的に考えるためには、前提として理が定まってないといけないことを示している。当然、これは数学以外にも当てはまる。

 人が人として生きるためには合理性が重要であるが、では、そこにはどのような理があるのだろうか。

 この答えは、一人一人が考え、定めなければならない。

 もしここで、人が自由意志を持たず、本能に縛られてしか生きれないならば、本能が理であり本能に従うことが合理性である上に、そもそも選択の余地がないため、この問題を考える必要がない。

 つまり、何が自分にとっての理なのかを考えることは、人が人として生きる上で課せられた宿命ととることも出来るだろう。

 こうした性質である以上、もしかしたら人としての理に共通のルールは無く、それぞれの価値観に従ったべき論しか語れないのかもしれない。しかし、それでもあえて語るならば、「幸福(並びに、それを見定め、より良く生きること)」が理になるのではないだろうか。

 もし人の特性が知性であるならば、目に見えない価値を見ずして、何が知性か。それを信念とせずして、何が自由意志か。私はこのように思う。

 これを冒頭で言う公理とすれば、話が展開されていく。

 すると続いて問題になるのが、我々は同じ空間を共有していることから、それぞれの幸福が対立する可能性がある、ということだ。

 この対立を回避するための思考実験としては、自然状態や無知のヴェールといった有名なものが挙げられ、その結果共同体が求められることとなる。

 

 ここまでを継承した上であえてここで話を一区切りさせると、この共同体を良くするための働きかけが公共政策となるため、公共政策にとっての理(公理)は幸福な社会になる。そして、合理性とは幸福な社会を実現する上で整合性が取れている行いである。

 このことから、公共政策に携わる人が仕えるべきは幸福な社会という形而上のものであって、目先の不平不満や人気ではないことが導かれる。

 もしも政府が目先の不平不満の解消や人気取りに邁進するならば、主権者である国民が幸福な社会を理解し、それに基づきながら不平不満を述べたり、特定の公人を支持するような環境でない限り、公共政策が実を結ぶことはありえないだろう。逆もまたしかりだ。

 つまり、公共政策が実を結ぶには、少なくとも主権者か政府のどちらかが幸福な社会を理解していないといけない。

 もちろん、幸福な社会を完全に理解することは極めて難しいと考えられるため、厳密には、幸福な社会を一定程度理解している(あるいは、幸福な社会を指向している)、という水準になるかもしれない。

 ここで問題となるのが、幸福な社会は存在が不確かなものである一方、不平不満や支持不支持は確かなものであることだ。そのため、不平不満や支持不支持に意識が向きがちであることの気持ちは理解できる。

 だからこそ、幸福な社会を目的とするには、目に見えない価値を「信じる」こと、そして、その目に見えない価値に仕える「覚悟」が必要不可欠なのだろう。これを宗教性と表現した時、私には違和感がない。

 ここで、公共政策においては、幸福な社会という目に見えない価値を理と定め、それに対しての整合性を合理性とすることから、公共政策における合理性と宗教性は一致することに気付く。

 同様に、個人レベルでも「幸福(並びに、それを見定め、より良く生きること)」を理とするならば、合理性と宗教性は一致する。

 つまり、人が人として幸福に生きるならば共同体が求められ、個人でも共同体でも合理性と宗教性は一致し、宗教性の喪失とは合理性の喪失をも意味することになる。幸福を理とするならば、合理と宗教は反するのではなく、一致する。

 ただ、公理は正しさの根拠を求めないだけであって、正しいとは限らない。もしも真の幸福が存在しない場合、あるいは、人の手では実現不可能である場合、以上の合理性と宗教性は不毛になる。そのため、次の言葉で締めくくりたい。

 

「信じよう、この世界の希望を。向き合おう、我々人間の可能性に。」