想う力

吉田真澄(東京支部)

 

 齢七十五を数える男がいたとしよう。終戦後まもなく生を受けた男は、ある冬、風邪を拗らせ、瀕死の縁をさまよったことがあるのかもしれない。その時、彼の母親は衰弱する我が子を見守りつつ、当時ようやく普及しはじめた木製冷蔵庫から氷を取り出し、三本銛のように厳つい氷砕きで割り、不安げな面持ちで氷嚢に詰めていたのかもしれない。そして母親は冷えきって赤味を帯び、痛痒感を覚えはじめた指先を口に含み温めては、辛い作業を深夜まで繰り返していたのかもしれない。

 

 介抱の甲斐あって一命を取り留めた男は、それから健やかに成長する。しかし、思春期の自我の目覚めにともなって反抗的となり、夫と死別した母親に向かって、友人から聞き覚えたばかりの単語「後家」という言葉を使って呼びかけ、涙を溜め追いかけてきた母親に、柄箒でこっぴどく叩かれたことがあるのかもしれない。その時男は、何かを学び、少しだけ大人になる。

 

 その後男は、地元の企業に就職して伴侶となる人と出会い、恋をし、世帯を持ち、初老の母親の腕に孫を抱かせることに成功したのかもしれない。女の子の誕生をことのほか喜んだ母親は、孫娘にお宮参りの祝着を贈り、駅前の写真館で記念写真におさまったのかもしれない。母親は晴天に恵まれたその日を感謝し、氏神様ばかりではなく、天に向かっても掌を合わせ、食事会の席では、病院嫌いの一人息子に、父親としての自覚と責任感について短い言葉で諭していたのかもしれない。

 

 世紀が改まる頃、男は親会社の合併にともなう子会社整理の命のもと、自社のリストラ担当に抜擢され、外部から招聘した人事コンサルタントとともに面談と人員削減に明け暮れる二年間を過ごし、その功績によって定年間際には役員の一角にまで上り詰めたのかもしれない。定年の日、部下たちから贈られた花束を握りしめ、男は自分より早くこの会社を去っていった同僚たちの顔を思い出していたのかもしれない。その夏、男の母親は亡くなる。喪主を務めた男は祭壇にいちばん近い席から、かつての同僚の参列を認め、小さな会釈よりも深く、心の中で頭を垂れたのかもしれない。それから数年後、墓参の道すがら、真夏の山あいの傾斜地にぽっかりと大きく花開いた一輪の山百合に目を奪われた男は、立ち止まり、目を閉じ、瞼の中に亡き母の姿を見ていたのかもしれない。

 

 そんな男が、まったく理不尽な理由によって予定されていた寿命より数年ほど早く亡くなったとしよう。どちらかといえば小賢しい男だったのかもしれない。思想や哲学とは無縁で、人格が高潔であったわけでもない。友だちと言える友人もほとんどいない。TV視聴を好み、休日はラジオをかけながら自家用車を丁寧に水洗いし、猜疑心を抱かず、国を信じ、家族との平穏な暮らしを愛する小さな男に過ぎなかったのかもしれない。平均余命からすれば、生きていてもあと数年。今死のうが、天寿を全うしようが大勢に影響はない。もちろん、歴史に足跡など残すはずもない。けれど、私は思う。名も知れぬ彼のような人物が積み重ねてきた歴史に敬意を抱き、ごく普通の人間が過ごした、ごく普通の時間が紡ぎだす、美しさや儚さに思いを馳せ、その人生を慈しむことのできる「人々の想い」こそが、我々がこの国の風土や先人たちから学び、培ってきた真の力ではなかったのかと。

 

 心の有り様は目に見えない。時間をかけて失われつつあるものは見えにくい。しかし、そんな「人々の想い」を涵養し得る社会的諸条件を整えることこそが、リーダーたちの仕事だったのではないだろうか。