最新刊、『表現者クライテリオン2024年11月号 [特集]反欧米論「アジアの新世紀に向けて」』、好評発売中!
今回は、特集論考の一部をお送りいたします。
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中国やインドは伝統文化の復興を試みている。
日本もグローバリズムに屈している場合ではない。
私の出身は、早稲田大学大学院東洋哲学専攻、通称「東哲」である。そこには仏教(印度哲学、中国仏教、日本仏教)、道教、儒教、神道の研究室が存在する。
東哲の淵源を辿ると、津田左右吉(一八七三~一九六一)に行きつく。津田は記紀神話の実証批判を行い、神武天皇(第一代)から仲哀天皇(第十四代)までの全ての天皇の実在を否定した。このことによって一九三九年、発禁処分を受けている(津田事件)。
ただ、津田は東洋史や中国思想に対しても同様に、片っ端から根底をひっくり返すような研究をしている。儒教経典などは、ほとんどが戦国末期から漢代に成立したものであるとする──ちなみに現在では津田の年代設定が批判され、再び経典成立の年代が遡りつつある──。こうした研究姿勢は師である白鳥庫吉(一八六五~一九四二)の文献批判を継承したものであり、もっといえば「抹殺博士」の異名をとった重野安繹(一八二七~一九一〇)、「神道は祭天の古俗」で物議を醸した久米邦武(一八三九~一九三一)を筆頭とした、明治以来の権威的学統に属する。戦後の陽明学研究を牽引した碩学、山下龍二(一九二四~二〇一一)が言うように、戦前に神話と史実を混同していた人間などまれで、神話は神話、歴史は歴史として考えていたから、津田の研究は改めて驚くほどのことはなかったのだが、時あたかも大正デモクラシーからの揺り戻しにあたり、神話から古代史をひねりだそうとする動きがあったこともあいまって、政治的に目をつけられたというだけのことである。
ところで、その津田に「東洋文化、東洋思想、東洋史」という一文がある。ここで津田は、「印度の文化、支那の文化、日本の文化はあるが、東洋文化というものはどこにもない」と述べた。日本、中国、インドの間には、仏教や儒教などの流通があったとしても、それはあくまで表面的なものであって、ギリシャ、ローマを継承する西洋諸国のような共通性が存在しない、というのである。
このことから津田は、「東洋」というカテゴリーそのものが無意味であり、「東洋史」も「東洋思想」も存在しないと断言した。もちろん「東洋哲学」などあり得ないのだから、早稲田に東哲があること自体、津田からすれば不本意かもしれない。
津田の「東洋」否定は、至極真っ当と言わねばならない。
たとえば朱子学を研究する場合、「理気二元論」や「体用論」に代表される観念的議論には、華厳の認識論であるとか、禅の主客(主体と客体)といった、仏教思想の影響があるとされる。ただ、朱子(一一三〇~一二〇〇)がそうした議論を行うのは、仏教に匹敵する観念的議論を展開することで、仏教思想の優位性を突き崩すためである。要するに、仏教思想がすぐれた観念論によって、社会常識や規範、さらに「個」の存在すら相対化し、「人倫」(人間関係)を解体していくのに対し、朱子は仏教批判を通じてそれらを再構築し、「人倫」を強化したいのである。その結果、朱子学の議論は「個」を育て、規範を生成する方法論(工夫論)が際立つようになっている。
こうした朱子の思想戦術は、後世の儒学者から猛批判を浴びる。つまり、朱子の行った観念的議論そのものが、「人倫」から遊離すると判断されたのである。眼前の他者を必要としない観念的思考は妄想に過ぎない。人間は常に、他者と向き合った際にわきおこる倫理的心情(良知)によってしか存在し得ず、また倫理的意味づけ(致良知)以外に事物を認識し、世界を創造し得ないと考える王陽明(一四七二~一五二八)は、その急先鋒であった。
さらに朱子学が日本に入ると、伊藤仁斎(一六二七~一七〇五)は、朱子の論理構造を利用して朱子学を批判し、「人倫日用」に徹底することを説く。これは、誠実な言動(孝悌忠信)にもとづいて生活する人々の人生がそのまま、現在進行形で社会を生成発展させている、という考えである。
また、朱子学者の貝原益軒(一六三〇~一七一四)は、生活をとりまくあらゆる物事の筋道(条理)を、朱子学の「理」に置き換えた。彼は、これを洗練させた先に世界が生成すると考える。
こうしてみると中国と日本は「人倫」重視で共通しているように見えるが、実際にはそうでもない。中国は皇帝による専制支配ばかりか、特に明代以降は親族内でも宮廷のような支配が行われる。したがって、「人倫」といっても極端に政治性が強く、同族の結束が強い反面、他の一族には恐ろしく冷淡で、地域や国家単位の共同体としては成熟しにくい。大多数の人民は貧困のまま放置され、「人倫」をつくる余裕すらない。故に、規範を批判的に再規定する中国儒教(朱子学、陽明学)は、「人倫」から専制的抑圧を剝ぎ取り、思いやりでつながる社会をつくらねばならない。『大学』がまず「個」を確立した先に、家、地域、国家へと至る調和的な結合を説くのは、そのためである。 これに対し、日本は…(続きは本誌にて)
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