西郷どんを生きる

吉田真澄(東京都、会社員、61歳)

 

 生を燃やす、つまり私を燃やすことなしに、死や公は輝きを取り戻し得ない。
昨年末、最終回を迎えた大河ドラマに感化されたわけでもないが、あらためて南洲翁・西郷隆盛の生き方に、そんな思いを抱いた。あの時代、この国には、生と死、そしてそのつながりから敷衍しうる「私と公の連続性」というイメージが息づいていた。

 ひるがえって、ふと周囲を見まわしてみれば、私たちは現在、価値相対主義や非干渉個人主義、さらにリベラリズム、ポストモダニズム、地球市民主義、グローバリズムなどに取り囲まれている。日常生活でもたびたびそれを実感する。最近でこそ極端な左派は少なくなったが、私の古い友人たちはもちろん、職業柄、身近に接する(広告、クリエイティブ、メディア業)多くの人々から、その気配が感じとれるのである。ところでこうした思想傾向に共通するものとは何なのだろう。
 
 なんのことはない、楽なのだ。血や汗や粘液。さらに濃密な人間関係やそれさえも破壊しかねない激烈な論議、複雑で手間のかかる歴史認識等をともなわない「爽やかイズム」は楽ちんなのである。生を燃やし、身を焦がすリスクもほとんどない。
 まるで、他者からは見えない秘密のクリーンルームの中から世界を眺め、批評しているかのようである。彼らの多くは、自身の思想を社会にコミットさせずに、その閉塞感がもたらすストレスをSNS等経由の、「私的コメント」にのせて発散させようとしている。私は、彼らから酒席で政治・思想的な話題をもちかけられても、ほとんどの場合は応じないようにしている。しかし相手が本当に大切にしたい友人だと思うケースなどでは、蛮勇をふるって、徹底的な討論に臨む。しかし、結果は悲惨。翌朝、残っているのは宿酔と無力感だけである。議論が平行線に終わるのではない。議論が煮詰まってきた瞬間に、相手の個が消えていく感じであり、白熱のさなかに、いつのまにか土俵が広がっていたような感じでもある。どんな時代にも、よくある風景だといえばそうかもしれない。私の説得力や表現力が足りないせいなのかもしれない。

 しかし、問題はそう単純なことではない。保守派、リベラル派あるいは、ナショナリズム派、グローバル派等のいかんにかかわらず、公か私かの二元論をベースにした論議があまりにも多過ぎるのである。そして前者は公を擁護して私を叩き、後者は私をよすがに、論議の接線を無化し、公の相対化をはかっていく。その結果、いよいよ私と公は対立概念として乖離していく。

 自省もこめて、それ、違います、と言いたい。

 かつて禅宗や縁起思想等を通じて、自他不二(じたふに)という言葉に生命が宿っていた時代があったように、人々の心の中に私と公の連続性はしっかりと認識されていた。その意味で生と死の連続性も維持(試しに、不二という言葉でキーワード検索をかけてみていただきたい。今でも、この二文字を冠した組織や企業がどれだけ多く残っていることか。)されていた。志士たちの立場は分かれ、激しく闘い、それぞれが未だ見ぬ国家に殉じていったが、それが維新の原動力であったのではないだろうか。
 そしてもし、そうであるとするなら、燃えるような生の肯定こそが、死をも輝かせるとは考えられないだろうか。自己を燃やすことなく、リスク回避に専心し、湿気混じりに燻ってばかりいる「私」から、健全な「公」など育まれるはずないのである。つまり、パブリックなるものの質を問うなら、パーソナルなものの質や熱量を問い、その連続性にこそ注意を払うべきだと思うのだ。
率直に言おう。爽やかなイメージの政治家など選んでいる場合ではないのだ。人々(とりわけ若年層)を燻らせる、あらゆる政策を断固拒否すべきなのだ。「傷
ついちゃった」もん勝ちの世相にはっきりと異をとなえるべきなのだ。ひ弱さや卑怯さや無能さと、スマートさを勘違いすべきではないのだ。

 『表現者クライテリオン』を愛読している。しかし、『表現者クライテリオン』がこのような論議を交わしうる「最後の砦」と言われる世の中にならないことを願っている。