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遅すぎた西部邁先生との出会い―言葉への畏怖と、現実における「if」を教えた人―

玉置文弥(22歳、愛知県、学生)

 

 「瞳がとてもきれいな人だなあ」というのが、初めて西部邁先生をテレビで拝見した時の―つまり私が高校生の時の―感想であった。過言を承知で言えば、その瞳こそが私をとらえて離さなかったのだろうと今更ながら思う。しかし私は、その人の存在をほとんど忘れていた、というよりも自分が、左翼的な方向へ向かっていく中で無視しようとしていた。あの瞳には、何か強い、そして曇りなき、断固たる意志を感じながらも。

 あれは2015年であった。私は安倍政権が推し進める「安保法案」に反対し、SEALDsに参加した。私は当初から左翼に嫌悪感を持っている人間であり、それはその後も、そして今も変わらない。だが、いや、だからこそなのか、当時から自分はなぜそのようなところに飛び込んだのかよくわからないままであった。雑多な事情を省けば、つまるところ私は、惰性および自負心を最大の原動力としてその活動を続けていたのである。だから、ある程度の充実感があっても、その活動における省察の無さと、その主張に含まれる大きな矛盾への嫌悪感がいつもまとわりついていたのだろう。

 その後、左翼活動を始めて2年半ほどが経った頃であった。雷が落ちたような衝撃が、―つまりそれは、本屋に行ってほとんど偶然に手にしたのが『ファシスタたらんとした者』という本であったということだけなのだが―私に落ちた。私はかつて見たあのきれいな瞳の人、つまり西部邁先生が2018年1月21日に自裁されたことをニュースで知り、その名前と、彼が60年安保の「闘士」から、経済学の教授を経て、その後保守へ「転向」した人である、といったことを思い出しながら、「有名な人で、きっと全うな保守なのだろうからどんなことを言っているのかくらいは知っておこう」という感じでその本を読みだした。

 そのころの私には、左翼への諦めから来る、「保守」への「あこがれ」が少しは蠢いていたのかもしれない。だからもしかすると案外容易に私自身に入ってきたのかも知れない。しかし、仮にそうだとしてもそんな簡単には、と思っていた。ところが、私はその本を読みだしてすぐさま、その文体と内容に衝撃を受けた。そして私は自分の過去を省察せずにはおれなくなった。私は夢中になって西部邁先生の本を読み続けた。先生の言葉は、私を諭すように、それでいて、真剣に考えてみろ!と強く叱咤しているようであった。無知で軽薄な私には、その内容ももちろんなのだが、「言葉への畏怖」というものが強く感じられた。それが何なのかについて、述べる知識も能力も私には無いが、あえて言うならば、私のような馬鹿にすら伝わる(と言ったら先生に失礼だが)言葉遣いにおける真剣さなのではないか。その真剣さは、先生にあって、常に「死」を意識している(だからこそ、我が国の歴史における伝統と慣習を畏怖し、保守する)という厳然たる事実に由来するものであるように思われる。だから大衆の吐く言説のように軽薄ではないのだ、表面的ではないのだ、と私は私自身の未熟な頭で考え始めていた。そして、その上での先生の主張は常に、現実における「if」つまり仮設を教えていたのだとも思った。だからそれを行なわないような言説などは、単なるデマゴギー、流言飛語であると厳しく批判されていたのではないか。

 どうでもよいが、その後私は左翼を辞めて、「保守」とは何であるか、つまり生と死を考え、我が国について真剣に考えてみようと決意した。しかしそれは、単に反左翼となろうということでは全くもって、無い。だから今も主張が重なることもある。それはほかならぬ先生がそして保守思想が、自分は過てる存在であると認識せよ、と言っていたことに起因するのだろう。

 あの「出会い」から半年以上が経った今、私は先生の死に「救われた」気がしている。何と言ってもあの死が無ければ私は、もしかすると、永遠に、真剣になることが出来なかったのかもしれないのだから。

 西部邁先生、本当にありがとうございました。つくづくお会いしたかったと何度も何度も思い返しては、ああ、もういらっしゃらないのだな、と確認して、またため息をつきながら、いやそれでも活力を出して、より善く生きようと思う今日この頃であります。