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コロナ禍三年目の私見

髙江啓祐(35歳、中学校講師、岐阜県)

 

コロナか大雪か
 新型コロナウイルスの新規感染者が四〇〇〇人以上になった一月六日の夜、私が見た夜のニュースの冒頭は、東京で大雪が降った話題であった。私は二つのことを思った。
 一つ目。「雪が降ったぐらいで騒ぐんじゃねえ」
 これは雪国育ちの人間なら大いに共感してくれるにちがいない。だが、残念ながら今回これについて深入りするつもりはない。
 閑話休題。二つ目の感想。
「ああ、やっとコロナがトップニュースではなくなった」
 今日は何人、今日は何人増えた、先週の何倍になった、ナントカ県で最多を更新……。まるでスポーツ選手が大記録を打ち立てたかのような煽動的報道が気になってしかたがない。先週感染ゼロの県が、今週一〇〇人に増えたら、マスコミは何倍になったと表現するのだろう。一月六日のあのテレビ局も、コロナより大雪が重要だと判断したわけだから、まあ健全である。

災難と幸福
 いつの頃からか、人々は新型コロナウイルスに振り回される現在の世の中を「コロナ禍」と呼ぶようになった。「コロナ渦」という誤記もときどき見られるが、「コロナという渦」という考え方もあながち的外れではないから、この誤記を見つけるたびに思わずニヤリとしてしまう。
 「禍」とは「わざわい」という意味である。「戦禍」「舌禍」「輪禍」という熟語の一部として、以前から時折見かけることのあった漢字である。
 「禍」の反対は「福」で、「禍福」という熟語もある。禍福はあざなえる縄のごとし。災難と幸福とは、よりあわせた縄のように表裏一体、という教えである。
 禍を転じて福と為す、という言葉もある。古来、災難を幸福に転換しうることを説いた教えは豊富だ。中でも有名なのは、『淮南子』を典拠とする「塞翁が馬」の故事であろう。逃げた馬が駿馬を連れて帰ってきて、馬に乗った子が骨折して、そのおかげで戦死せずに済んだ、という話だ。
 この話は、次のように締め括られている。
福の禍と為り、禍の福と為ること、化、極むべからず、深、測るべからざるなり。
(福之為禍、禍之為福、化不可極、深不可測也。)
 幸福が災難となり、災難が幸福となる、その変化はどこまで行っても極致に到らないし、その深さは測ることができない、というわけである。
 では、今の世の中はどうだろうか。幸福は幸福としか捉えられず、災難は災難としか捉えられず、物事の二面性を認めようとせず、あるいは二面性に気づかない。そんな人が増えたように思う。人々は多様性を尊重すると言いながら、個人の中にある二面性については不寛容だとも感じる。
 そもそも、「コロナ禍」というネーミング自体、「コロナは禍でしかない」という発想に基づいたものだと言ってしまうのはさすがに行き過ぎか。もちろん、「コロナが幸福だ」などと言っては顰蹙を買うだろう。しかし、少なくともコロナだけが災難ではないし、コロナという逆境を順境に転換していかなければならないのは間違いないだろう。

マスクについて
 思い返せば、つい数年前まで、マスクを着けている人もいれば、着けていない人もいた。風邪やインフルエンザが流行している季節であってもそうだった。それに対してとやかく言う人は、おそらく、ほぼいなかった。人が不寛容になったと言われて久しいが、それでも、あの頃はまだ、実に寛容な時代であった。
 いつもマスクを着けている人は、むしろちょっと変わった人という印象すらあった。マスクを年がら年中着けている生徒は、コロナ前であれば各クラスに数名だった。私立学校に勤務していた頃は、海外へ行く行事もあった。事前指導で「海外ではマスクを着けているのは重病の人だけだから、基本的にマスクは着けないように」なんて話をしていた頃が懐かしい。
 今は違う。マスクを着けることが善で、着けないのは悪と考えられるようになった。確かに、冬の満員電車でどちらが妥当かと言われれば、着けたほうがいいのだろう。けれど、今年の夏は、そろそろマスクなしで生活したいものだ。感染症に罹らないようにして熱中症に罹るのは馬鹿げている。私の顔も、ストレスだけが原因だとしたら荒れすぎである。
 おそらく、マスクについては多様性の認められない日々が今後も続くだろう。そう遠くない将来、春の花粉飛散情報、夏の熱中症警戒情報のように、天気予報の終盤に、「マスク予報」なるコーナーが設けられ、「明日はマスクを着けましょう」「明日はを外しても大丈夫」などと呼びかけられる日が来そうである。
 絶対的幸福もなければ、絶対的災難もない。それと同じように、絶対善もなければ絶対悪もない。私はそう思う。ワクチンに副反応があるように、マスクにも弊害がある。私はコロナを恐れる人を否定するつもりはない。かく言う私も、志村けんさんが亡くなったあのときは、コロナは怖いなあ、と確かに思った。けれども、ワクチン接種の状況、飲み薬の登場、オミクロン株感染者の症状といった要素を総合的に勘案したとき、全国民が一様にコロナを恐れることを強いられる必要が、本当にあるのか。怖がる人は怖がり、怖がらない人は怖がらない。そろそろ多様性が認められてもいい時期に来てはいないか。今年も成人式を中止した自治体があるけれども、コロナは今でも果たして一生に一度の行事を奪うほどの疫病なのか。短絡的な対応はそろそろやめたほうがいいのではないか。

教育現場の現状
 コロナ対策を徹底することが善、しないことは悪。現在、この考え方が当たり前になっている。ただ、そう言われてもなかなか苦しいのが教育現場である。
 学校が普通でなくなって、もう三年目だ。コロナコロナと騒がれ続け、学生、生徒、児童、園児は、当たり前にできていたことができなくなり、自然とするはずの経験ができなくなっている。
 一例を挙げれば、多くの学校では、なかなか全校集会ができていない。素早く廊下に整列して、静かに移動して、多くの人がいて、多くの視線があって、緊張感をもって、集中して先生の話を聴くというあの時間が、なくなってしまった。今は全校集会の代わりに教室で全校放送を聴くことが多い。生徒が聴く内容は同じでも、やはり、全校集会のほうが副次的効果に富んでいる。体育館で聴くのと教室で聴くのと、どちらがより真剣に聴けるかは自明である。
 数年前まで普通にできていた学校行事も、コロナに翻弄されている。当然のことながら、どんな行事であっても、数か月前から様々な準備をする。だが、数か月後のコロナの状況がはっきりしないため、せっかく準備した行事が中止になったり、直前になって内容を変更することになったり、あらかじめ内容を精選したりと、非常に苦しい状況が続いている。一月上旬の時点で、広島県・山口県・沖縄県にまん延防止等重点措置が出された。いずれも修学旅行先としておなじみの県である。計画を大幅に見直さねばならない学校は少なくないと思われる。いい加減にしてくれ、と感じた教員は私だけではないはずだ。
 よくコロナと比較されるのがインフルエンザだが、インフルによるクラスターは毎年多くの学校で発生し、学級閉鎖が行われていた。もし全校生徒や教員などを徹底的に検査していたら、毎年無症状のインフル感染者が大勢いたのかもしれない。
世の中に情報が溢れている。一人一人のちょっとした独り言が世界中に広まり、どこかの誰かが自分に対して言ったことがすぐわかってしまう。「知りすぎることの弊害」についても、そろそろ我々は考えるときに来ているかもしれない。
 ここで正岡子規の『歌よみに与ふる書』に触れたい。子規は、百人一首にも入っている凡河内躬恒の歌「心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花」について、「瑣細な事を矢鱈に仰山に述べたのみ」と斬り捨て、さらにこう述べた。
 小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候。
 これは、『古今和歌集』に対する子規の批評であるが、和歌に限った忠告ではないように思われる。世間で大きく言われていることは、本当に重大なことなのか。それとも、実は小さなことなのか。我々一人一人の判断力が求められている。

コロナ禍でも変わらないこと
 昨年八月、なかなか感染者数が減らず、夏休み明けの学校をどのように再開するか、全国の学校が苦慮していた。結局、クラス全員に対するオンライン授業を実施した学校もあれば、分散登校を実施した学校もあった。分散登校といっても、クラスの半数を登校させ、残り半数は自宅学習、という方法もあれば、登校しないグループには教室での残り半数への対面授業風景の映像を配信、という方法を選んだ学校もあった。
 ただ、全員登校してもらわないと不可能なのが、定期テストである。全国の一部の学校では定期テストを廃止しているらしいが、全国的に廃止される日はまだずっと先だろう。
 なぜなかなか定期テストは廃止できないか。それは、テストが公平かつ客観的に成績を出すために最適な資料だからである。では、そもそもなぜ成績を出さなければならないのか。言うまでもなく、進学において成績が重要な資料となるからである。
 今思うと、大学時代の私の成績には、不可解なものがずいぶんあった。だが、私はそれに対して何の抗議もしなかった。それは、次の道に進むにあたって、大学の成績はさして重要ではなかったからである。
 一方、高校入試や大学入試においては、成績が重要な資料であることは言うまでもない。では、成績は本当に生徒の優劣を表しているのか。私は、はっきり言って、表していないと思う。生徒の能力は表しているかもしれないが、生徒の魅力は表していないと言える。例えば、挨拶ができない生徒でもオール5は取れる。一方、どんなに愛想がよくて憎めない生徒でも、テストがさっぱりであれば、点数相応の成績を付けざるを得ない。成績処理においては、とにかく客観性・公平性が求められるのだが、これが教育改革における高い壁だ。大学入試共通テストに記述式問題が導入できなかった理由の中にも、客観性・公平性が約束できないことがあった。
 多くの学生の終着駅である就職試験において、ペーパーテストのみで合否が決まることなどまずなかろう。大抵面接があり、人物重視で合否が決まる。程度の差こそあれ、面接にはどうしても主観が混じるだろう。不合格だったからといって、面接試験をやり直せとは言えない。
 にもかかわらず、学校では、相変わらず客観性・公平性が要求され、教科担任の主観を抜きにし、ペーパーテストを最重視した成績処理が行われる。したがって、テストの点数およびそれに基づく成績ばかりを気にして一喜一憂する生徒が多い。テストで何点取れるかよりも、もっと大切なことがたくさんあるのに。こんな現状こそ、コロナ禍を機に変わってほしいと願うのである。