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人類と環境の悩ましい関係

橋本由美(東京都)

 

 人類が進歩していると人々が考えるようになったのはいつごろからであろうか。
 ヘーゲルの体系的な進歩史観の遥か以前の大航海時代には、既にその感覚が庶民にまで及んでいたようだ。シェークスピアの最後の戯曲『テンペスト』が書かれたのは一六一〇年頃で、一六〇九年に起きたソマーズ提督の「海の冒険号」の遭難事故を参考にしたと言われる。「海の冒険号」はバミューダ島で嵐に遭って座礁し、乗組員は全員死亡したと思われていた。その船乗りたちが自分たちで小舟を作り、約一年後にヴァージニアに辿り着いて生還したニュースは大きな驚きとともに伝えられ、彼らが語る孤島の自然や難破の様子や漂流譚は当時の人々の関心事になっていた。新大陸や未知の土地、絶海の孤島などの発見と、航海の先々で初めて接する異なる文明や未開の住民の話は、当時のヨーロッパ人の好奇心を大いに刺激したであろう。
 思想や概念は比較によって認識される。歴史的感覚は過ぎた日々と現在との対比で生じる。この時代の植民地政策の流れの中で、未開と文明という対比が、地域差という横軸から、時間という縦軸に置き換えられるようになったとしてもおかしくない。
 『テンペスト』の舞台は絶海の孤島であるが、登場人物はヨーロッパ文明に生きる人々である。唯一、異形のキャリバンだけが、この島で生まれ育った原住民であり、未開の象徴である。ここに流されたプロスペローや彼を陥れた人々は文明側の植民者で、彼らとキャリバンとのやりとりは、既に、文明と未開についての現代的な問題を先取りしている。教育するプロスペローに悪態をつき、漂流者のアンソニーたちに敵意を示すキャリバンをひねくれた野蛮人と捉えるか、平和に暮らしている未開の地に文明を持ち込む植民者が問題なのか、その是非については、既にこの時代にも議論の端に上っていたようだ。シェークスピアは、文明と未開の問題を善悪の次元では語らない。しかし、背景の時代が醸し出す雰囲気には、物質文明を人間の精神の発達に投影し、相互の境界を曖昧にしているのが窺える。

 人類の進歩とは何だろう。
 それを生物的能力と捉えるならば、ホモ・サピエンスの能力のピークは、おそらく一万年ほど前であろう。農耕や言語や宗教を生み出したころである。この人類の「文化のカンブリア爆発」ともいえる能力の開花には計り知れないほどの創造力と集中力と思考力を必要としたはずだ。この頃の人類の脳は劇的に発達し活発に作動していたに違いない。次々に生み出される文化や高次な思考を支える精緻な言語は連鎖的に高められ、人類史を大きく変えた。(そして、私たちは言葉から逃れられなくなったのであるが…。)
 そのころから、人類は記憶力や技能や運動能力を、自らの生物的資質からアウトソーシングして貯えたり利用したりする術を見つけた。動物や水力を利用して、自分のエネルギーを節約できることに気がついた。馬や舟は自分の足で移動するよりも速く遠くまで楽に運んでくれた。大量の物資も重い荷物も造作なく運べるようになった。必死で記憶しなくても、文字の記録は膨大で多様な情報を再現してくれた。自らの生物的能力を鍛えなくても、生活を維持できるようになり、より快適に暮らせるようになる方法を見つけたのだ。私たちは明らかに古代の人類よりも身体能力や記憶力が劣っている。それでも、多くの情報を蓄積し技術を利用することで、生活はますます便利に、ますます手間を省けるようになり、より少ない努力で日々を送れるようになった。アウトソーシングしたために出来たゆとりは芸術や文学などの自己表現を豊かにし、思索を高めた。しかし、その余剰時間を、自己の啓発や深い思索やクリエイティブな表現力のために使っている者はほんの僅かである。殆どは自己を鍛えることよりも享楽と無為のうちに過ごし、それでも生きていけるようになった。人類の生物的進化ではなく、人類が作り出した「文明の在り方」が進歩したのである。

 人類にとって文明は「環境に手を加えること」と殆ど同義である。
 ひとりの人間にとっての環境は先ず身の回りの居心地のことだ。水や食べ物が豊富にある環境は重要である。遠くまで危険を冒して探しに行かなくても、近くで調達できればいい。それは農耕や牧畜で可能になった。暑さ寒さを緩和できて風雨を凌げるほうがいい。周辺に危険な生き物が少ない方がいい。自然のシェルターに頼らず、木や石や泥を使って安全で快適な棲家を作り出すことでこれも可能になった。人類は、身近な環境から変えていった。それだけのことでも、自然界からすれば破壊行為である。けれども人口が少なく、彼らの環境への作用がゆっくり進めば、自然の回復力は維持される。どんな動植物もそれなりに自然環境を利用し破壊している。人間の営みもそんな自然現象の一部で済んでいた。
 文明は人類の労力を省くためのシステムでもある。便利な技術は地球上どこでも受け入れられる。過去よりもずっと便利で快適な環境を手に入れ、多くの知識を得られるようになったことで、私たちは過去の人類より優れていると思い込んでいる。自分たちの時代が絶頂ではないとしても、少なくとも過去の時代の頂点を越えるものだと、現代人がそう感じていることを指摘したのはオルテガである。自然科学は証明された理論を土台にして、次の論理を構築することが可能である。人類もそのように進化していると考えたのだろう。知的に賢く倫理的に上等になったという思い込みが、現在の価値観で過去を断罪しようとする。便利で快適な文明の恩恵に浴していない人々は無知で旧思想のままだと捉え、彼らを啓蒙して救済すべきだという善意のお節介が始まる。自ら蒙を啓くのではなく、他者による啓蒙は民衆教化であり多様性を否定する宗教行為である。環境はどんどん変えられていった。

 問題は人口である。
 人類は環境に順応する生物的進化ではなく、環境を自分たちに合うように作り変えることによって繁栄した種であった。食糧の確保と増産、衣類や家屋による危険の回避、近代になって衛生的な環境と疾病の克服は寿命を延ばし、幼児死亡率の減少とともに、普通の生活をしていれば簡単には死ななくても済むようになった。艱難辛苦に耐えうる「種」に生物的進化をするには気の遠くなるほどの時間がかかる。それよりも自分たちに都合のいいように環境を作り変えたほうが早い。それで楽に寿命を延ばせるなら慶賀の至りである。環境の改造に伴う自然への負荷が限定的な間は文明と自然は共存できたし、環境が無限であれば、人類の繁栄にこれほど効率のいいやり方はない筈であった。しかし、地球環境は有限だった。そして、この効率の良さが、地球のキャパシティを越えて人口を急激に増大させてしまった。
 一万年前の地球上の人口は一千万人以下だったと推定されている。農耕と定住が徐々に人口を増やし、紀元ゼロ年の頃は世界の人口は三億人程度になっていたという。西暦一五〇〇年頃はおよそ五億人だったらしい。その頃はまだ地球にゆとりがあった。人口増加は加速され、二〇一一年に七十億を超えた人口はまだ増え続けて現在八十億に迫っている。地球上のある特定の種が突出して増えることは、それだけで生態系を壊すことは明白である。もし、他の動植物が地球環境を脅かすくらい異常に繁殖したならば、人々はそれを根絶させようとあらゆる手を尽くすだろう。しかし、いま増殖しているのは自分たちである。人類の倫理から言えば、その誰をも殺すことは許されない。

 環境保全を絶対的な命題としたとき、そのための解決策は二つある。直ちに産業革命前の人口まで減らすことだ。多少のジェノサイドでは間に合わない。一挙に十分の一に減らすくらいでなければ効果はない。あるいは、地球という「系」から大挙して脱出することだ。脱出にかかるエネルギーに見合うだけの資源を脱出先から調達できることは条件のひとつである。どちらも実現性は絶望的に低い。
 人類の生命を最優先の命題とすれば、その莫大な人口を支えているのは近代産業である。
 これだけの人口に必要な食糧をどのように賄うのか。主要な穀物や作物の生育条件に適した土地は限られている。条件に合う生産地から世界中に分配するには輸送だけでもエネルギーを消費する。小規模な地域農業や有機栽培は、生産地にとって望ましい農業の在り方であるが、生産に適さない土地に住む多くの貧しい人口を支える余剰はない。持続可能な里山の農業だけでは、地域の住民を支えられても、世界の飢餓や難民の胃袋を満たせない。生産に適した恵まれた地域での環境にやさしい農業が、不毛の地の多くの貧しい命を切り捨てる。
 全人口を賄う食糧増産のための農業には、大規模化と集約化と機械化、そして化学肥料や農薬などが不可欠になっている。大規模農業は従来の環境を大きく破壊することで可能になる。家畜化や養殖だけでなく、品種改良や遺伝子操作で食糧増産を試み、資本力のある多国籍企業が種子や品種を支配して現代の農業を独占している。そのすべてが本来の自然の生態系を変える環境操作であり環境破壊である。
 食糧は、生産・運搬・分配のどの段階でも近代産業に支えられている。その近代産業を支えるには莫大な資源とエネルギーが必要になる。自然のバランスを越えたエネルギーを消費することで環境を大きく破壊することになるが、産業を縮小・後退させれば膨大な人口を養えない。近代化産業化のための競争は拡大し、人類と環境のトレードオフの項目が増えていく。人類は繫栄のために環境を変えて来たのに、その繁栄が人類を滅亡に導くという大いなる自家撞着に陥ることになった。
 環境の維持保全は善である。同時に、飢餓の撲滅も善である。病の克服も寿命を延ばすことも善である。人類の生命を護ることは善である。「だれ一人取り残さない」ためのエネルギー・食糧問題と、その確保で生じる環境破壊の悪循環で、人類と環境の悩ましい関係は果てしなく続く。

 食糧だけが問題ではない。地球上では様々な大きな変化が次々に起こっている。絶滅種や絶滅危惧種が増えている。人間の何気ない営みがたったひとつの種を絶滅させても、その連鎖で環境は大きな打撃を受ける。人々が地球上のどこへでも入り込み、頻繁に移動することでウイルスや病原菌の猛威に晒される。地震や火山の爆発や洪水というリスクは消えることがない。コンピュータの劇的な発達で情報の嵐に攪拌され振り回される。地上だけでなく宇宙を巡る競争が激しくなっている。気候変動は大きな関心事である。気候という共通項が注目される以前でも、地域ごとの環境問題は太古の昔からあった。人類が関わるか関わらないかを問わず、また、人類に都合がいいか悪いかを問わず、地球にはいろいろなことが起こる。地球は複雑系である。どんなに些細なことでもバタフライエフェクトを招きかねず、原因も連鎖反応も副作用も単純ではなく複合的である。複雑系の一要素である人類に、完璧な解決策を見出すことは不可能だろう。部分は全体を包摂できない。

 科学技術が発展する以前の状態に戻すことが人類にとって望ましいという意見は常に存在する。科学や技術は悪だから、もう発展などはしないほうがいいという人々は多い。それらの意見の多くは、未開の苦労を想像できない、文明に浴した地域で囁かれる。
 しかし、科学技術が弊害を伴うものであっても、科学技術無しでは解決策がないのも事実である。困ったことに、私たちには最良の方法というのがわからないのである。
 人類という生物的に弱い存在は、環境を改造することでしか生存できなくなっている。身体的強靭さや運動能力、技能や知識の集積を外部に委託し続けた人間は、自然の真っただ中に一人裸で放り出されたとき、殆ど無力だということに気づくだろう。

 存在を知覚しなければ容易に破壊が始まる。対象との関係性や相互作用を、五感を通して認識する能力が必要なことを、私たちは環境問題から学んだ。(日本の文化にはそれがあったが、私たちはいつの間にか忘れかけている。)
 人類はいま、知恵を絞っている。但し、理系文系ジャンルを問わず、目的をもった研究だけに集中するのは危険である。現時点での問題の重要性を認識し、その解決のための研究を推進することは必要であるが、その陰で他の多様な研究を放棄してはならないだろう。放棄したことで、将来必要になったときの対処法を失う。自然界は相互に関わっているのだ。役に立ちそうもない研究や無駄で無価値に思われる研究も見逃してはいけないのである。ふとした好奇心や興味の追求が、意外な懸案の解決に繋がることもある。その当時は顧みられなかった研究に、十年二十年後、いや百年二百年経って真価を見出す例はいくらでもある。

 政治が絡むと研究に制約がかかる。
 経済が絡むと資金に偏りが起こる。
 憂慮されるのは、「選択と集中」によって、それ以外の研究の芽を摘んでしまうことである。政界も官界も金融界も顕在化した既存の問題は理解しても、創造性に富んだ斬新で革新的な研究を理解できない。そんなことがあるということを想像すらしない。現状で正しいと思われていることだけを強要するのは限りなく宗教的行為に近い。利権と覇権に誘導された目的性のある研究にだけ照準を合わせるのではなく、失敗や偶然も含めて荒唐無稽に思われる研究をも排除せず、自由な発想の場を確保しなくてはいけないだろう。

 多くをアウトソーシングしてきた人類に残されたのは、創造力と感性と集中力である。このまま能力をアウトソーシングし続け、創造力や感性の領域までそれが及べば、残されるのはゾンビと化した人類の群れである。人類は自らを家畜化している。身体性を失った脳は暴走する。人類が環境との折り合いをつけるためにも、身体性を取り戻し、思考し、集中し、精神の自由を持ち続けなくてはならないだろう。その姿勢こそ、人類のリエゾン・デートルではないだろうか。この先、人類の進化が、治療の範囲を超えた遺伝子操作などの人為的な「改造」によるものだとしたら、それはホモ・サピエンスの自己破壊である。