インフルエンザ―忘れられた感染症

七里正昭(35歳、福岡県、団体職員)

 

 その映像を目にしたとき、私は、比喩ではなく本当に、口を開けたまま言葉を失った。
「国立感染症研究所によりますと、今月十四日までの一週間で報告されたインフルエンザの患者数は、全国で推計およそ二〇五万人でした。二〇〇万人を突破したのは今シーズンで初めてです。二週連続で全国的に大きな流行を示す警報レベルを超えていて、全国六二八五の学校や幼稚園などで休校や学年・学級閉鎖の報告がありました。」
 以上が全文書き起こしである。二〇一六年二月一九日に放送された「インフルエンザ今シーズン初、一週間で二〇〇万人突破」というタイトルの民放ニュース動画だ。時間は三一秒。当時の日本国民が、このニュースにほぼ全く関心を持っていないことがわかる。私自身も知らなかった。多くの子どもたち、先生たち、医療職の方々は大変な思いをされただろう。申し訳ない気持ちになった。
 この映像を紹介した作家の泉美木蘭氏は「『一週間で二〇五万人』って、『一日二九万人の感染確認』ということですよ。なんでコロナでこんな社会になるの?」と述べ、二〇一九年、二〇一四年、二〇〇九年にも存在する同様のニュース動画を紹介している。どれも時間は三〇~四〇秒だ。
 泉美氏の文章に深く頷かされる。同時に、次のような見方もできるのではないか。PCR検査で無症状の人も含めた新型コロナ「陽性者」を次々に発見している現在とは異なり、前出の映像では、発熱などの明らかな症状が現れ、医療機関を受診した「患者」の数が算出されている。すなわち「一週間で二〇五万人」のインフルエンザ「患者」の背景には、数千万人、またはそれ以上の「感染者」「陽性者」がいた可能性が高いのである。
 年間約一万人が亡くなり、子どもにも容赦なく襲いかかり、幾度も「大変異」して人間の免疫機構をすり抜けるインフルエンザ(藤井聡先生は「コロナとは別の死因で亡くなった方でも、たまたまコロナウイルスが体内に存在していたっていうだけで『コロナ死』ってことにされている。同じ定義でインフルエンザ死をカウントしたら、一万人じゃなくて絶対数万人くらいになるでしょうね」と指摘されている。なるほどと思わされた)。
 この強毒感染症に対して、当時の日本国民は「八割自粛」「ワクチン・検査パッケージ」のごとき強圧的な「行動制限」は採らなかった。「国民皆保険」をフル稼働させて、社会保障の一部をなす、国民が各種の障壁なく医療にアクセスできる「医療保障」で淡々と応じた。なぜだろうか。
 子どもたち、若者たちが、黙食や行事中止を強いられず、幼稚園や学校での時間を謳歌できるために。子どもがマスクを外せずに持久走をして亡くならないために。仕事を掛け持ちして懸命に働く女性たちをますます貧困にさせないために。「陽性」「濃厚接触」というだけで妊婦さんが産科をすぐに受診できずに流産して涙を落とさないように。周りの大人が笑顔を浮かべていることを赤ちゃんに知ってもらうために。お店や会社が気兼ねなく営業できるために。親と子が、祖父母と孫が、愛する者同士が、素顔のままで会い、抱きしめあえるように。一人一人が選ぶべきワクチン接種という医療行為が強要されないために。文化を守るため、人間が人間であるために。分断を生み、国民と国家の活力を喪失させないために。
コロナ禍以前の日本社会も決して完璧ではないが、現状のひどさを見れば、かつての日本国民は正しかったと言わざるを得ない。
 インフルエンザを思い出そう。いや、私たちのほとんどは知りもせず、意識すらしていなかったのだから、学ぼう。インフルエンザと新型コロナを徹底比較しよう。それが、専門家支配を打破する私たちの「革命」、愛着ある「古い生活様式」をとりもどす私たちの「復古」へと結実するであろう。