表現者クライテリオン同好会への想い

林文寿(42歳、岐阜県、福祉系NPO職員)

 

 この二年間の新型コロナウイルスや直近のロシアのウクライナ侵攻などに対する大手マスコミの報道への違和感を消せない。そこに感じるのは、戦後教育の成果が見事に現れているのだろうかと。
 斯く言う、自分もその教育をきちんと受けて育ってきた者の1人である。それを考えれば、世論という波がこうやって反応するのも解せるというもの。所謂戦後という時間、日本人は何かから逃げる為にひたすら自己家畜化を進めてきたのではないか。そのために自身の頭で思考する負荷をできうる限り避け続けてきたのではないか。亜細亜の盟主と誇らしげに装いつつ、その内実は対米従属という欺瞞を知りながら、無意識に無視を続けてきた。物資的な豊かさと個人の自由が最も尊いと言い切り、幸せとは何か、生きるとは何か(死ぬとは何か)の意味について無視を続けきた。
 しかし残念ながら、家畜のままでもいられた戦後という時間は、偶然七十七年続いてきただけの時間だったのかもしれない。偶然の限りにおいては、見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じていればみんなハッピー(思考停止)でいられたのかもしれない。しかし、急速に衰退していく国力、中国の超大国化、そして東日本大震災以降、近い将来再び来るであろう大震災への漠然とした不安などを肌で感じていれば、もう目をいい加減惰眠を貪ることから目を醒まして良いはずではないだろか。このままズルズルと昨日の惰性のまま、茹で蛙のまま、我々は滅亡に向かってもいいのだろうかと正気になっても。
 しかし、コロナ狂想曲やロシアの武力侵攻に対し、我が国家の主体性欠如に目を覆いたくなるばかりである。この国が民主主義国家というのであるならば、政府に主体性がないのは、国民にそれが欠如しているからに他ならない。(それは今に始まった事ではないにせよ)
 自分の主観では人との繋がり、共同体、この国の社会は壊れかけている。様々な面においてこの国家は国の体をなしているのか疑いたくなる事ばかりだ。ただそれでも、日々絶望ばかりを感じていても、虚無に陥る事はしたくないのだ。この場所(故郷、国)に生まれ、日本語で語り(思考し)、今まで生きてきたこの自分、そして自分を育ててくれたこの場所(両親、友、祖先)を信じるならば、こんな状況であっても、より善く生きていきたいと願うのだ。
 そのためには常に考え続け問い続けなければいけないのだと強く感じる。より善く生きるとは一体どういう事なのだろうかと。今、自分はそれに叶っているのだろうかと。問い続けなければいけない。そう考えるならば、歴史・文化・伝統とは人がよく生きるために必要な型ではないかと気がつくのだ。それは自身の根本を支えているものであり、もしもそれを放棄し信じられなくなってしまえば、自分は消え失せてしまい、生きる意味を問う事も出来なくなってしまうのではないかと。
 しかし残念ながら、戦後とは自分達の受け継いできた有形無形の歴史・文化・伝統を蔑み破壊し、ひたすらに捨て続け、一体それが何であったのかを無視し続けてきた時間でもあったのではないだろうか。それがこの国の民の低い幸福度しか得られない現状を招いてしまった一つの原因だろう。
 より善く生きる。それは決して簡単な事ではないのだろう。藤井編集長が著書『プラグマティズムの作法』の中で書かれていた「真剣に生きよ、そして自らの内に真剣ならざるものが見出されたのならそれを恥じ、真剣に生きる他者に敬意を表しつつ、より真剣に生きんと決意し続けよ」と。今の自分の中では、そういう事なのかと反芻している。
 より善く生きる、真剣に生きる。超人や哲人ではない自分のような庶民がそれを続けていく為には、孤立していてはいけないのではないか。同じ想いを共有する仲間を実感すること。自分がこの雑誌を読む事の一つの意義だと感じている。そして読むことから一歩進み、真剣に生きる他者に出逢い、語りあう場が必要だと思うのだ。そのための社交の場としてクライテリオン同好会活動が必要だと思うのだ。
 人間として生まれ、日本人として生きているならばそれを誇り高く生きていきたい。その誇りを子供、孫の次世代にも繋げていきたい。そんな想いの同好会があったならば、絶望の中の小さな灯にもなれるのかと。