【読者からの手紙】村山内閣の「功」

内免久和(73歳,無職,大阪府)

 

 十年一昔というからもう三昔ほど前だが、私は平成6年成立の村山富市内閣を消極支持していた。その前の細川・羽田両内閣は総理こそ日本新党や新生党でも実態は新生公明民社の実力者トリオを並べてワンワンライス(小沢一郎・米沢隆。もう一人の「ワン」は市川某か)と称した公明主導内閣だったからだ。昔有識の市が「社共共闘」を「共社共闘が正しい」と喝破したようなものだ。
 それに終止符を打つべく立ちあがった国士(と見るか、権力亡者と見るかは立場によろうが)亀井静香らの労を私は多とした。
 この自社変態連立を保守の堕落・禁じ手と見なした中曾根康弘はソッポを向き、海部俊樹は自ら村山に対抗して立候補。惜敗の半年後、新進党結成に大きな役割を果たした。
 なお米沢と袂を別った大内啓伍は新進党結党前「新・新党は学会党」と喝破し、学会・公明党に白い眼を向ける国民は少なからぬ感銘を受けた。私もその一人だ。
 ちなみに大内はその後、自由連合のお飾り総裁を経て、落選中の塚本三郎と共に自民党入りするも次の総選挙では共に討ち死に。新進党入りの米沢も中山成淋に敗れた。民社党委員長経験者トリオは枕を並べて討ち死にの惨状。米沢以外はその後浮上せず。
 名誉棄損激しき村山内閣であったが、

①公明党政権を終わらせた。
②村山は安保・自衛隊を認めた。

 この二点を私は今も功罪の功として評価する。特に②は、日本の野党の外交・防衛政策がいかに実行不可能な空理空論であり、責任ある地位につくと放擲せざるをえない代物であるかということを如実に満天下に知らしめた点で画期的功績だ。ついでに社会党は自民党の海千山千の策士たちに数あわせ用にいいように利用されるためだけの顔のない集団になりさがっていたのもよくわかった。これで社会党は政党としての独自の生命力をほぼ喪失したといえる。自民党はかくも融通無碍で、吸引力を誇る、花(総理の椅子)を与えて実をとる貪婪な党なのだ。
 西尾末広・水谷長三郎(この二人はのちに民社党を結成)・鈴木茂三郎・河上丈太郎・浅沼稲次郎・和田博雄・江田三郎らの顔と風格がなつかしい。

 前置きがかくも長くなっては前半部といった方がよかろう。以下後半部へ。

 村山内閣の「功」の②だが、4月志位日共委員長が自衛隊違憲論者なのに「急迫不正の侵略されたら、自衛隊を含めあらゆる手段を用い、国民と日本の主権を守る」と強調。自衛隊違憲論・解消論との矛盾を衝かれると三百代言をくり返した。この御仁は3月にも「プーチンのようなリーダーが選ばれても、他国への侵略ができないようにする条項が憲法9条」とツイッターに投稿。あちらにプーチンが出た時を考えずこちらの出方のみを考える人物だということを示した。
 古い話だが、昭和五十二年秋、革新の北極星とまでいわれた現職釧路市長(社共推薦)が自衛隊を否定しながら、災害復旧を自衛隊に頼った点を衝かれ、惨敗したことを思い出した。
 もっと古いが、昭和四十九年秋、田中内閣末期(レームダックなる表現は好まない)フォード米大統領が現職米大統領としては初めてと思うが、来日。当時社共推薦で一期目の舩橋京都市長は歓迎・もてなしに励み、推薦母体の社共は「フォード帰れ」と叫んだ。責任ある地位にある人といない人との差だな、と当時大学院生だった私は思った。
 この釧路と京都のことは古いだけに日本政治の宿痾的ともいえる変わらない体質を象徴していよう。
 佐々木良作の民主党委員長時代の名言「責任野党と無責任野党」を私は想起した。「ハハノンキだね」と笑いたくなるような非現実的提案ですましてきたツケが回ってきた挙句の果ての志位呆言を追求しよう。―川に落ちた犬は打て―。