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【読者からの手紙】大学改革の論じ方

浅野考平(大阪府、71歳、元大学教員)

 

 ガバナンス改革や「文系学部廃止」といった「大学改革」は成功するか。答えは簡単で、必ず失敗する。多分、多くの人はそう思っている。ゆとり教育も失敗、法科大学院の制度の失敗、近くは入学者選抜制度の改革の失敗を思い出しているのかも知れない。みんながそう思っているから、多くの納得を得るような意見を述べるには、いかにしてその理由をうまく説明するか、だけを考えればよい。それぞれの日頃の思考のパターンに沿って料理すればよい。例えば、新自由主義やNPM(ニュー・パブリック・マネージメント)の信奉者であれば、文部科学省や評価機関による大学評価は、「成果」の評価になっていないし、大学関係者による甘い「身内の評価」で、このような評価のあり方をそのままにしていくら改革を試みても無駄である。また、日頃、文部科学省の大学への介入ぶりを腹立たしく思っている教員たちであれば、トップダウンによる運営は、憲法が保障する学問の自由に反するだけでなく、さまざまな学問分野それぞれのことがわからないトップのリーダーシップで、大学の改革が成し遂げるはずはない、と言えばよい。もっとさまざまなパターンが考えられるだろう。受け取る方は受け取る方で、自分の思考パターンにあった筋書きの意見を読んで納得すればよい。しかし、このような論じ方にどれほどの意味があるのだろうか。

 大学の運営は、ボトムアップでなければならないという人たちに聞きたい。今大学が直面している問題の今の政府の施策は、基本的に少子化や国の財政の逼迫に対応せんがためのものである。少子化や国の財政の逼迫をそのままにして、他にどのような現実的な対応が考えられるのだろうか。政権が代わり、政策全体が変わらなければどうしようもないと言っているように思える。それはいつのことになるのだろうか。

 それより目の前の学生や彼ら彼女らを経済的に支える保護者に思いをいたらせたらどうだろう。政権が代わり日本が、思い通りの国になるまでどれだけかかるのか。それまでに卒業し、社会に出ていくものたち、周辺で支えるものたちの思いはどうすればよいのか。あきらめろ、というのではない。正しいと考えるのであれば、時間がかかっても言い続け、その実現を図ればよい。しかし、それはそれとして、今やるべきこともあるだろう。

 知識や能力を身につけることへの意欲を持た(て)ない学生たちに何を、どのようにして教えるのか。それらについて教員たちで、議論し身近でできる小さな「改革」を実現していってはどうか。個別の教員の思いだけではできないはずである。複数の教員、考え方を調整しなければならないだろう。その過程で自らの意見や考え方の修正も必要になるだろう。困難をきわめるに違いない。ひょっとすればガバナンス改革(学長のリーダーシップ)を言いだす側の気持ちが少しはわかるかも知れない。

 ガバナンス改革を進め、学長のリーダーシップを確立して問題を改善しようとする行政の側に聞きたい。教育の現場で、教育という具体的な行為の効果を、意図通りに導き出すことはきわめて難しい。学習者のようすを見ながら教授者が臨機応変に教える内容や方法を変化させるといったことを積み重ねる他はない。直接学生と接して、教授する立場の教員の力をもってしかなしえない。従って教育改善は教員の認識をある程度そろえることなしには、成果をえることはできない。ましてや、もっと大きな教育の制度の改革の効果を意図通りにもとめることははるかに難しい。このような状況の中でだれが学長になり、だれが補佐するのだろうか。そのような人材はどこにいるのだろうか。誰が、どうやって選び出そうとするのか。そもそもどのような人材がその役を担えると考えているのだろうか。この答えなしにおそらく大学の関係者の多くは納得するまい。