「個人の生き方」と「共同体の行く末」を繋ぐ学問・思想

前田一樹(39歳・教員・信州支部長)

 

 日本の「政治、経済、社会、文化」にわたる総合的な凋落に不安を持ち、緊縮財政による長期不況、国際関係における劣勢、伝統文化の衰退など深刻な問題が山積の状況を知るにつけ、たびたび感じるのが、【「学者」でも「官僚」でも「政治家」でもない一般人が、このような公共(パブリック)な問題について思い煩う必要があるのか。庶民がどうしようない問題について詳しく知ってもどうしようもないのではないか?】という疑いです。もちろんそれは「必要」というわけではありません。しかし、「日本」という共同体に生まれ育った以上、属する「共同体の行く末」について関心を持つことは当然であると言えます。

 そういった「現象的な問題」の詳細について知り、疑問を持ったり意見を表明したりすることの前に、意図せず生まれ、意図せず死んでいく「本来的に不安」を抱える存在である人間には、【自己の生き方について対自的に考えるための「思想」が必要なのだ】と考え続けてきました。どんな職業、年齢、立場、国籍の違いを越えて、存在的な不安を感じ取ってしまう人間は、そのような「不安な生」に対策を立てねばならず、その意味で「思想」を持ってしか生きられないということです。

 そして、「ただ生きる」のではなく、当人にとっての「悲しみが少なく、喜びが大きい方へ」と向かおうとするのは、人間が本来持っている傾向であり、そのための「羅針盤」である考えの基準のことを「思想」と考えることができます。同時に「喜ばしさ」の方に向かってくため、状況に応じて「思想」を進化改善する営みが求められます。

 そのように「生き方」の次元で「思想」を捉え、また「共同体」が「個人」を育み、「個人」が「共同体」に影響を与えるという「循環的関係」のなかに、共同体の現況として「政治、経済、社会、文化」に関する知識を位置づけることができれば、「学者、政治家、官僚」でなくても、公共(パブリック)の問題に関心を持つことの意義が見いだされるように思います。

 以上はこれまで漠然と考えていたことですが、これまで同様の考えを表現した文章に出会っていませんでした。ところが、前回のメルマガでご紹介した、中江藤樹の『翁問答』にそれに触れる内容がありましたので、それをご紹介をしたいいたします。

 

「そもそも学問は、心の汚れを清め身の行いを善くすることを本来の実態とする。文字のなかった大昔には、いうまでもなく読むべき書物もないから、ただ聖人の言行を手本にして学問をしたのである。世も末になった学問の本実を失うことを恐れて、書物に記して学問の鏡と定めてから今日まで、書物を読むことを学問の書門とするのである。」(中公バックス 日本の名著11『翁問答』、96-97)

 

 私が「思想」という言葉を当てたところを、藤樹は「学問」という言葉を当てていると考えると、「思想=学問」の目的は「心の汚れを清め行いを善くすること」だと定義しています。さらに、書物を読むことが「学問」だと考えられているが、それは「モデルとなる言行(生き方)」が不明瞭になった後、学問を代替するものであると大胆に言っています。

 

「その心が清らかで行いを正しくする思案工夫のある人は、書物も読まず一文字も解らなくても学問する人なのである。その工夫がなければ、四書五経を昼夜手から離さずに読んでいても学問する人ではない」(同然、97)

 

 

 こう考えると、「学問」は必ずしも多読を要しないことになります。学問の「要点」を明確にするための極端な仮説とも考えられますが「学問=思想」は、まさに「善く生きること」そのものであることが見出されます。

 しかし、これでは「学問」がごく個人的な営みになり、展開力がなくなってしまいます。藤樹はそれについて、「学問と政治の一致」に言及するなかで、

 

すべて世間のことで学問にはずれたものは一つもない、(…)学問は明徳を明らかにするのを全体の根本とする。明徳は、天地の有形のもの以外にも通じ、上もなく外もなく、神明にして測ることのできないものであり、天下国家を治める政治は明徳の神通明用の要領であるから、いわば政治は明徳を明らかにする学問であり、学問は天下国家を治める政治でもある。もともと、一にして二、二にして一のものと心得るがよい。(同前、87)

 

 と言っています。学問は、「個人の生き方の問題」から、政治という「大きな共同体の問題」まで含んでいるものであるということです。この短い引用を積み重ねただけで、「学問=思想」というものが持っている根源的な意義が整理されます。

 最も欧米の「学問観」というものはこれとまったく違ったものだと思われますが、私にとっては藤樹の「学問観」は納得できるものであると同時に、学問への志を後押しされるものがあります。

 そして、私が『クライテリオン』を読んでいてもっとも敬服しているのは、毎回様々なテーマを扱っていながら、「個人の生き方と共同体の行く末」の問題が、ときに近づきときに離れながらも切れてしまうことなく緊密な関係を保っていることです。

 この「個人の生き方と共同体の行く末を繋ぐ線」を意識しつつ、『クライテリオン』を読むことでまた違った気づきがあるかもしれません。参考になれば幸いです。