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過剰医療を通して考える公共政策の難しさ

StudentのK(35歳、茨城県、公務員)

 

「公共政策の目的は幸福な社会をつくることである」と言われた場合、その言わんとすることについては多くの人が同意するだろう。私も同意する。

続いて、「幸福な社会をつくるために、常に一番大事なことは国民の命を守ることである」と言われた場合、これも多くの人が同意するかもしれない。しかし、私はこれに同意しない。

 歴史を振り返れば、政府の権威の根源は国民の安全保障に求められることが多い。

 従って、公共政策の正統性も生命至上主義と結びつくことが多いように感じられる。

 ここで、公共政策の目的を生命至上主義の視点から定めた場合、必然的に、人々が死ぬリスクを可能な限り低くするために人々が協力する社会をつくることが公共政策の目的となる。

 一見これは妥当な考えであるかのように見える。少なくとも的外れではないかもしれない。

 しかしここで、公共政策の目的を生命至上主義ではなく、幸福な社会をつくることとした場合にはどのようになるだろうか。

 私は、この幸福な社会をつくることを目的とした場合、生命至上主義を否定「しなければならない」という結論が導かれると考えている。

 この理屈を説明するにあたっては、まずは日常生活で例えてみる。

 仮に、もしコンビニで買い物する時には絶対に飲み物を買うと決めている人がいたとする。お金に余裕があるときには、その他に必要なものがあったとしても飲み物とその必要なものを同時に買うことができるだろう。しかし、お金に余裕がなく飲み物を買うと本来必要とする物が買えなくなってしまう場合、飲み物を絶対に買うという考えを捨てない限りは必要な物が買えなくなってしまう。

 このように、目的以外のものを「常に」一番とする考えがあった場合、その考えを採用すると真の目的との間に矛盾が生じる可能性があるため、そのような考えは否定「しなければならない」。

 同様に、命を守るために生きる行動と、幸福になるために生きる行動が対立する場合があるならば、絶対に命を守る、という考えを捨てない限りは、幸福になるための選択をすることができない事態が想定される。

 つまり、これのためなら命を懸けられる、という心意気を持つことになるのだろうが、当然言うは易く、というものである。

 

 以上が生命至上主義を否定する理由であるが、公共政策を語る場合、一人の人生観を語るのではなく社会を語ることになる。

 そのため、一人一人が自分の物事の中で命を懸ける対象を見つけるのではなく、幸福な社会(つまり、人々の幸福が対立せず包含される真に善い社会)をつくるために命を懸けることが求められる。

 よって、自分が死ぬリスクを低減する選択と、幸福な社会をつくる選択とが対立した場合、幸福な社会をつくる選択を人々が迷わず選べるようでなければ公共政策が完成することは無いだろう。

 ここに公共政策の難しさを見出すことができるが、これを皆が乗り越えるのは極めて困難なものであることは想像に難くない。

 かくいう私も、もしも実際にその2択を迫られたときに、迷わず幸福な社会をつくる選択をできるかどうかは自信がない、というのが正直なところだ。

 だから私は、迷わずその選択肢を選べないのは恥だ、と言うつもりはない。しかし、そうした公共政策の本質的な難しさやその尊さを理解することは重要である、ということは述べておきたい。

 以上のように考えた場合、目で見て理解できる死の回避ではなく、想像上の存在でしかない(さらに言えば、想像することすら難しい)幸福な社会をつくる選択を、自らの死への恐怖を乗り越えた上であえて選ぶ、というのは人間にしか出来ないのかもしれない。

 だからこそ、真に人が人であることの難しさとその尊さが見出だされるのではないだろうか。

 以上の話は、当然命を軽んじるものではない。特に、全体主義によって個々の命が軽んじられる状況には注意しなければならない。

 あくまでも生命「至上」主義を否定しているだけであり、生命「尊重」主義というものであれば同意する。さらに言えば、もしも幸福な社会が完成したならば、人々の生命の安全が保障されているような状況であり、生命至上主義を採用しても結果として支障がないのかもしれない。しかし、少なくとも未完成である現状においては、生命至上主義は採用できないのだろう。

 

 以上を踏まえ、(私自身も含む)民主主義での主権者にこう問いたい。

「幸福になる覚悟はありますか?」