「表現力」と「表明力」
貴誌にはこれまで何度も私の投稿・寄稿を掲載していただいた。愚見が何らかの選考を経て活字になり、それが後世にまで残ることは、私にとって無上の喜びである。
高校生の頃から、新聞や雑誌に一生懸命未熟な意見を送り、なんとかして自分の考えを知ってもらおうと自分なりに努力してきた者としては、いとも簡単に自分の考えを世界中に「表明」できるようになった当世を見ていると、今昔の感に堪えない。
人に評価される「表現力」が乏しくても、ぱっと簡潔に思いを述べて注目してもらう「表明力」さえあれば、容易に時代の寵児となりうるような時代が到来してしまったと言えるからだ。
だが、軽率に自分の心中を披瀝してしまうことによって、つまらぬいざこざが発生してしまうという幼少期の記憶を、人々は思い出し始めている。幼児が思ったことを思った瞬間に言ってしまい、大人にたしなめられる風景を我々はよく見かけるけれども、最近はもう少し大きな体の人でも同じ過ちを犯しがちだ。
ジョン・ロックは、『SomeThoughts concerning Education』(『教育に関する考察』)において、次のことが「Children」にとって有益だと説いている。
deliberating whether it be fit or no,before they speak(Oxford University Press, 1989,p.166)
口を開く前に適、不適を考える(服部知文訳、岩波文庫、一九六七、一五八頁)
ロックが生きた当時、大人にとってそれはできて当たり前のことだったのだろう。
「部分否定」の姿勢
数年前、私が拙稿を公にせんとする場として貴誌を選んだのは、貴誌が他誌に比べて多い字数の原稿を求めていたからであった。ちなみに、貴誌は他誌と違って勝手な書き換えをされる心配がほとんどない。
私は、貴誌の論調に対して賛成とか反対とかいう感情は特に抱いていない。貴誌の掲げる多くの題目に対して関心はあるけれども、大した見識があるわけでもない。
私は全肯定にも全否定にも気持ち悪さを覚える人間だ。「安倍晋三」と聞いて、無条件に礼賛する人々も、無条件に非難する人々も、私には同類にしか見えない。いずれも考えようとしていないからである。どんなこと、どんな人でも個々に判断すべきだというのが私の根本的立場である。
令和四年十月二十五日、野田佳彦元首相が、安倍晋三元首相への追悼演説を行った。「国葬」に到る経過については批判的立場をとりながらも、人生観に基づいて参列した野田氏のような「部分否定」の姿勢が、おそらく今、我々から薄れている。
だから私は、そんな世相を悪用する。いったん信頼関係さえ構築してしまえば、ちょっとした失敗や失言ぐらいは見逃してもらえる。信頼関係ができていなければ、何を言っても、何をしても、袋叩きである。いつ悪用しているのかは想像にお任せする。
貴誌と私の思想的一致点
貴誌以外の雑誌が、貴誌と同じような条件で投稿・寄稿を募集していたとして、そこに私が貴誌に掲載していただいたような意見を送ったとしたら、果たして掲載されるか。されないような気がする。貴誌が愚見を掲載してくださるということは、やはり貴誌の思想と私の思想に何らかの近いところがあるからにちがいない。
では、貴誌と私の思想的一致点は何だろう。それは、「傷つけてはいけない」という現代日本における暗黙の大前提と戦っていることだと感じている。
「傷つけてはいけない」
現在、これが日本においてあらゆる場面の大前提となっているように思われる。
新型コロナウイルスに感染した人はかわいそうである。ロシアの蛮行に苦しむウクライナもかわいそうである。学校にもかわいそうな児童生徒は大勢いる。それは当然なのだが、「かわいそうだろ! 傷つけるな!」と言っているだけでは済まない問題が、世の中には案外多い。
傷つけてはいけない。それは当然である。とはいえ、「傷つけてはいけない」一辺倒の風潮に対して、私は長い間疑問を抱いている。
例えば、登下校時における児童生徒の交通事故を防止するため、我々はどんなことに取り組んでいるだろうか。一方では、ドライバーに対して安全運転を呼びかける。それはまさに、「傷つけてはいけない」という観点の訴えである。交通事故から児童生徒の身を守るためには、ドライバーという他者に気を付けてもらおうという発想である。
けれども、我々がどんなに安全運転を呼び掛けようとも、危険な運転をする人間がいることを我々は知っている。故に、大人は児童生徒に対しても、「左右をよく確認しよう」「横断歩道は手を挙げて渡ろう」などと呼びかけるわけである。
これは言わば「傷ついてはいけない」という観点の指導である。つまり、被害を受けないためには自分自身も気を付けていかねばならないという発想である。
交通事故防止のためのこれら両方向からの取り組みは、もっと様々な場面で応用されるべきだ。
例えば、自殺はどうすれば防げるのだろう。世間では自殺対策があれこれ論じられている。聞こえてくる意見は、「社会を変えよう」とか「いじめをなくそう」とか、自分の外側にあるものを変えていこうという発想が多い。
つまり、「人を傷つけることがなくなれば、自殺はなくなるだろう」という考え方である。もちろんそれはそれで全然間違ってはいないものの、それだけでいいのだろうか。どんなに他者を変えても、それでも全ての他者を変え尽くすことはできない。人が命を絶ってしまったとき、加害者をどんなに非難しても、命は帰ってこない。
いじめによる自殺がなくならない。事態を好転させるために必要なことは、「いじめをなくそう」だけでよいのだろうか。
世界中からいじめが消滅するその日まで(そういう日が来るかどうかは誰にも分からないが)、いじめっ子はどこかに必ず存在する。いじめをなくそうと我々がどんなに努力しようとも、現時点でいじめはなくなっていないわけだから、結局いじめの加害者と被害者は、今もどこかに必ずいる。
いじめる側といじめられる側、悪いのはどちらか。当然いじめる側だ。だとしても、いじめられる側に何かできることはないだろうか。筆者が思い出すのは、こんな一節だ。
ぴん助やきしやごが何を云つたつて知らん顔をして居ればいゝぢやないか。どうせ下らんのだから。(中略)日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるの ぢやない。西洋と大に違ふ所は、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云ふ一大仮定の下に発達して居るのだ。(夏目漱石『定本 漱石全集 第一巻 吾輩は猫である』岩波書店、二〇一六、三五五~三五六頁)
他者を変えるのは際限のない話だ。変えても変えても、それでもまだ、変わっていない別の他者が永久に見つかり続けるだろう。それならば、たった一人しかいない自己を変えてしまったほうが、きっと手っ取り早いにちがいない。
「傷つけてはいけない」だけではなく、「傷ついてはいけない」のだ。
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