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【寄稿】伊藤貫氏の「この人たちは、終わっているね」に関するコメント

ライスフェルド真実

 

 伊藤氏は、欧州諸国にはもはや「二十一世紀の覇権争奪戦に熱中するような野心や気概は残って」おらず「不介入主義的な老人集団になっていくだろう」と、今後の欧州人の未来について推測し、「この人たちは、もう終わっているね」といった意見を述べられた。人生の半分以上をドイツで過ごした筆者は、この箇所を読んだ瞬間思わず声をあげて笑ってしまった。筆者が昨今幾度となくこの国について思うことであったからだ。また、氏のニュアンスに、三島由紀夫が戦後の日本に見た「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない」性質と重なるものも感じた。

 日本は、「外圧」により、西洋の知識人たちの間では既に疑問視されていた「近代」をより「優れたもの」として追い求め、明治維新の後に「近代化」を成し遂げた。今の日本人は、敗戦により「精神分裂病」(岸田秀)をさらに悪化させたものの、基本的にはこの路線に乗ったまま歴史を歩んできているように見える。

 日本人の大きな欠点の一つは、たとえ継続が非合理的なものであったにせよ、一度始めたことは路線変更ができないことだ。最近の例でいえば、欧米では機能性と安全性が疑問視され始めたコロナワクチンの「五回目」の接種やマスクをすすめる、といったことがあげられる。「人類史上最大の薬害」(AfD党首アリス・バイデル)に関連させると、かつて「サリドマイド事件」があった。日本では、欧州でその危険が認められてからなんと10ヵ月も販売され続けていた。こういったことは一般的には「思考停止」と呼ばれるのだろうが、「批判的な検証」といったことはカテゴリーとして日本には存在しないかのようである。

 筆者は、日本における盲目的な西洋化の過程で、「たらいの水と一緒に赤子が流される」ということが起こった、と考えている。ここで言う「赤子」とは、西洋よりもすぐれていたと思われる明治以前には存在した「日本的ななにか」である。それは、もったいない(SGDsではなくこれで十分)、義理堅い、世間のおかげ、有難い、恩を仇で返す(のはよくない)、といった日常用語に表現された日本精神、日本文化、日本の魂である。ルース・ベネディクトの示した「西洋的でも仏教的でも儒教的でもない」「全く独特の」「徳と不徳」の体系(「文化の型」)と表すことも出来るだろう。

 「日本が滅びる」(伊藤貫)かもしれないのは、「終わっていた」西洋を盲目的に見習ったからではないか、というのが筆者の見解であるが、本稿の目的は日本批判ではない。本稿では、伊藤氏の「終わってるね」という感覚と共に、欧州の一国であるドイツに目を向け、この国は如何に「終わっている」のか、について考察したい。

 コロナ禍以降、「ドイツは終わっている」と思わざるを得なくなる経験が特に多いが、そんなドイツも筆者が渡独した90年代半ばは、市場と国家のバランスの取れた「社会市場経済」が存在していた。ドイツの伝統、ともいえるこの経済形態は、「自助」(Subsidiarität)と「相互扶助」(Solidarist)を原理とした「社会国家」(Sozialstaat)の確立をめざす。即ち「市場の失敗」を国家が補完し、社会的公正と社会保障の充実を図る、といったいわばドイツの「国体」ともいえる国家の根本体制が「社会国家」である。しかしこの場合の「Sozialソツィアル」という用語は、社会共産主義のそれとは違う。ビーレフェルトの社会学者フランツ-クサファー・カオフマンによると、ドイツ社会国家の「精神的根源」は、「キリスト教的なものから導かれる」という。しかもそれは単なる憐みの「施し」ではなく、「神の像と肖」(Gottebenbildlichkeit)すなわち「どんな人間でも神の像(イコン)であり続け、一人ひとりの人間はかけがえのない尊い存在である」という教義から導かれる理想である。

 「社会的な」ドイツには、国立大学の学費はほぼ無料といった有難い制度がある。この制度によって、人びとに社会における地位を自由に改善すること (社会移動)のチャンスが与えられ、社会的不平等の再生産を最小化する、ということが可能になってくる。どちらかというと「リベラル型」(国家の介入がミニマム)の日本の大学の学費と比べ、筆者はこの「社会国家」の概念に大いに感銘を受けたものであった。

 だが、この「社会的市場経済」に基づく「社会国家」は、社民党のゲアハルト・シュレーダーが政権についた1998年辺りから変遷を続け、アングロサクソン国家に顕著な「リベラル型」(エスピン・アンデルセン)のミニマムな社会保障モデルへと移行していった。今思えば、この「ドイツの良き伝統」の瓦解と「ネオリベラル化」は、ドイツの「終わり」への一歩であったといえる。

 「終わっている」もう一つの最近の事例を見てみよう。ロシアのプーチン大統領は、2022年9月30日の大統領演説で、ドイツ(と日本と韓国)は「国家元首がオフィスだけでなく自宅まで盗聴されて」いるような英米の属国だ、といった趣旨の発言をした。2017年のオバマ前政権下で国家安全保障局(NSA)が当時の独首相アンゲラ・メルケルの携帯を11年間にわたり盗聴していたとされる事件を念頭においての発言であろう。ドイツには、連邦情報局(Bundesnachrichtendienst=BND)や連邦憲法擁護庁(Bundesamt für Verfassungsschutz、略称:BfV)等の情報機関があるが、この事件によって国家安全保障を担う中枢機関の能力に対する信頼が失墜することとなった。

 技術大国と呼ばれたドイツでこんな事件が起こるとは、といったショックは大きかったが、実は「ドイツ社会のデジタル化は惨状と言えるレベルで遅れている」ことを鑑みると、このような事件が起こったことは、寝耳に水だったわけではない。ドイツ人は意外にアナログ好きなところがあり(車もオートマは人気がない)、未だに電子決済より現金を好む国民性がある。アナログ好き、なことは必ずしも悪いことではないが、問題は、ドイツにおける平均的学力低下とそれに伴う高度人材不足にある。

 2000年に経済協力開発機構(OECD)が実施した学習到達度調査(PISA)の結果、ドイツの子供たちは「読解力」「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」の全ての分野において平均以下であったことがわかり、ドイツでは「PISA ショック」と受け止められた。これを機にドイツの教育制度は改善されたのか。個人的な観察からいうと「ナイン」と答えるしかない。慢性的な教師不足、教師の職業倫理の低さ(簡単に学校を休む)、学校設備の老朽化(トイレットペーパーやマグネットといった基本的なものがない)などだ。

 この背景には、移民の増加による影響もある。教室に数人ドイツ語が出来ない子供がいた場合、どうしてもレベルを落として授業をせざるを得ない。移民が多い地域では、小学校を卒業した時点で(ドイツは四年で卒業)読み書きがまともに出来ない子供(ドイツ人を含む)が三割を超えることもあるという。ドイツ語学習で「ゆとり教育」が賞賛され、以前のようにひたすら書いて単語を覚える「旧型方式」ではなく、「耳で聞いた通りに書く」という「改革教育」が取り入れた。例えば、太陽(ゾンネ)は、正しくは „Sonne“だが、一つ目の「n」が聞き取りにくいため、聞いただけだと„Sone“ と書く子供も多い。「最初は間違っても学習プロセスの中でだんだんと正しいつづりを身に着けるようになる」 と主張されていたが、実践でそれは起こらなかった。結果、この方式で読み書きを学んだ子供達は、少なくとも部分的な文盲のリスクを負わされることとなった。

 『愚鈍化するドイツ人: 教育制度が子供たちの未来をどのように妨げているか』(『Deutschland verdummt: Wie das Bildungssystem die Zukunft unserer Kinder verbaut』2019)を執筆した児童精神科医でベストセラー作家のミヒャエル・ヴィンターホフ氏によると、「小学生の7-8割に発達の遅れが見られる」という。ドイツの劣化を取り扱った本は、元ドイツ社会民主党でドイツ連邦銀行理事会のメンバーだった政治家のティロ・ザラツィンの著作『Deutschland schafft sich ab』(『ドイツがなくなる』2010)が皮切りとなり、他には2018年には、社会学者のヨースト・バオホが『ドイツとの決別 ある政治的な墓誌』( 『Abschied von Deutschland. Eine politische Grafschrift』)などがある。一部のドイツの言論知識人らは、ドイツは「終わっている」と警告を鳴らしているのである。

 さて、話を再び最近の政治の舞台にかえよう。2022年2月7日の米バイデン大統領とオラフ・ショルツ独首相の共同記者会見でドイツが米国の属国であることを示唆する出来事があった。バイデンが「ロシアがウクライナに侵攻した場合、ノードストリーム2を閉鎖する」「約束する。私たちにはそれが出来るだろう」といった発言をした際、ま隣にいたショルツは、会のように口を閉じ一切発言をしなかったのだ。よく考えると大変グロテスクなシーンだった。「主権国家としてありえない」と述べた数少ないまともな言論人がいたが、このことが国家的議論になることはなかった。ちなみに、2014年のウクライナ介入時に「EUをファッ●せよ」(!)との発言が暴露されたビクトリア・ヌーランド国務次官も、この一ヵ月前に「もしロシアがウクライナに侵攻すれば、いずれにせよノルトストリーム2を止める」という発言を行っている。2022年9月にノルドストリーム海底パイプラインは何者かによる破壊工作により4本のうち3本は機能不全に陥ったが、ドイツは「国益のために」を理由に情報公開しないこととし、事件は実質上「お蔵入り」となった。

 SNS上では「言ってはいけない犯人」の憶測を助長するような情報が飛び交った。パイプラインが破壊された同日に「ありがとう、アメリカ」(「Thank YOU、USA」)といったポーランドの元国防・外相で現欧州議会議員のラデック・シコルスキーのツイートや、「携帯をハッキングされた」(ガーディアン電子版 2022年10月29日)短命の元英国首相リズ・トラスが2022年9月26日の爆発直後に、アントニー・ブリンケン米国務省長官に“It’s done”といったショートメッセージを送付した、というニュージーランド在住のドイツ系フィンランド人のインターネット起業家「Kim Dotcom」という人物のツイートなどである。

 現金が好きで倹約家のドイツ人が、巨額の投資を行った財産のようなものを破壊されても犯人捜しをしなくてもいい、というほどドイツ人は「寛大」になったとも思われない。「犯罪を見逃す」といったドイツ政府の行為は、ドイツの主権国家性(Staatssouveränität)を問わざるを得ないものであると思うし、また、国家の正統性(Legitimität)を著しく傷つける行為である、といっても過言ではないように思われる。これが「我々は誇りあるドイツ人だ」I(「こんなことを言うのはナチだけだ」)と言うことを禁止された国民の慣れの果てなのだろうか。以上、誹謗中傷からではなく、かつての良きドイツを取り戻してほしい、といった思いから、「終わってる」ドイツについての考察を行った。もちろん、こういった「愛欧」的思いは、全体主義化するEUやヨーロッパ文明にも向けられている。