大学の自由

佐々木広(神奈川県、22歳、学生)

 

 ある飲み会で、ひどく叱られたときのことです。

 私は、隣に座っていた先生に対して、非常に失礼な態度をとってしまいました。自分の態度が失礼かどうかというのは、自分自身では気づくことができないところに、礼儀の難しさがあるのでしょう。私はその時、即座に謝罪すれば良かったものの、あろうことか自分の無礼な言動には、意図があるなどと弁明しようとしてしまったのです。弁明をしようとすればするほど、深みにはまるように、自分の罪は重くなっていきました。結局、先生に圧倒されて、散々抑え込まれた後になって、漸く謝りました。今となっては、自分の未熟さが招いた結果であったと反省しております。

 最終的には、その先生は寛容にも快く許してくれたわけですが、それを見て私は安心すると同時に、久しぶりの感覚をおぼえました。大人からきつく叱られて許しを受けるという体験は、大学生になってその時が初めてだったのです。私は大学4年生で、一人暮らしです。つまり、学部1年から3年の間、私のマナーを監督する人は誰もいなかったのです。

 上京してから、怒られるということがほとんどなくなった。多くの学生はそう実感していると思います。ダメな学生は、ほとんど見放されていくのです。「大学教育なんて、適当に単位をあげて、就職先が決まれば、それで終わり。真っ当な人間を育てる意欲なんてないんじゃないか?」こんな疑いを抱いている学生がいてもおかしくないほどです。

 学業のみならず、学生の品行や言動に及ぶ、きめ細かい指導をしてくれる大学教員の方は少ないように思います。自らの研究室生となれば話は別ですが、それ以外の学生に対しても積極的に指導しようとする教員は、本当に少数です。

現代の大学教員の方々は、そういう細かい指導をするだけの余裕がなくなってきているのかもしれません。もっとも、彼らは財務省による研究費削減と文科省による大学改革に翻弄されている立場でもありますため、むしろ被害者というべきなのでしょう。

けれども、最終的なしわ寄せを被るのは学生であるように思います。というのも、「怒られることがない」という今の状況は、一見して自由にみえながら、実際は行動に大きな制限がかかってしまうからです。

 その論拠は、中野剛志氏『資本主義の預言者たち』第6章の中にあります。

 

“個人の自由を徹底的に認め、慣習による束縛が全くないような社会では、各個人は、これから何をしでかすのか、まったくわからなくなる。そのような社会では、不確実性が極めて高くなり、このため、人は将来に向けて行動することが難しくなる。他人が何を考えて行動するのかが予測できなくなれば、日常のコミュニケーションすら困難になろう。”

 

 ここで中野氏は、個人にとって不確実性を低減するためには、自由と規律のバランスが重要であることを述べるわけですが、この過剰な自由による弊害というのは、大学生の間でこそ成り立つ問題であるように思えてなりません。

 要するに、普段から自分たちを指導し、秩序を創造してくれる存在がいないため、昨今の学生は人間関係の構築において大きな不確実性に直面しているのです。このような日常で、コミュニケーションを試みようものなら、誰だって空気を読まざるを得ません。大学生は、遊びたい放題に見えながら、ぜんぜん自由ではないのです。

 ところで、私の卒業した高校は、教員による統制が比較的に厳しい学校でした。けれども、文化祭といった恒例行事は生徒たちに任されており、自分たちはその中で盛んに交流したのを憶えています。過激な考えや無礼な言動は先生が修正してくれたし、交流の中でお互いが何を考えているのか理解し合えたのです。すなわち、高校時代の方が大学生活よりも自由でした。

 私は、大学生活の中に“基準”を与えうる存在として、教育者による指導がやはり必要なものだと考えます。このことを気づかせてくれた、冒頭で述べた先生には感謝します。したがって、「大学生はもうアレコレを教える年頃じゃない」といったり、自己責任論を安易にいったりせずに、全国の大学の先生方には、学生たちを教育するため、ぜひ身を乗り出してくれたらと思います。