「健康人」の独裁を許すな

小松勇太(29歳、自営業、埼玉県)

 

 ピーター・ドラッカーは保守系の思想家でもあった。第二次世界大戦のファシズム全体主義の起源は、それに先立つ第一次世界大戦と世界恐慌という二匹の「魔物」が大衆と社会の関係を破壊してしまったことにあると彼は論じた。
 経済至上主義社会の約束では、「経済人」のグローバルな経済活動による利潤追求こそが社会に自由と平等、そして平和をもたらすことになっていた。しかし、戦争と恐慌という「魔物」によって、約束は嘘だと知られてしまった。社会の理想が「経済人」によっては実現しないことを知ったとき、大衆は社会における自らの位置と役割を喪失し、無意味化された社会と自らの生を前にして絶望してしまう。
 そこに、軍隊=組織を至高の社会目的とし、全体のために個々の人間は犠牲になるべしと教える「英雄人」の人間像を理想に掲げて、社会と個人の生に秩序を取り戻す「魔物退治」を名乗り出たのがファシズム全体主義であった。
 このドラッカーの分析に重ねれば、日本全体を一つの病院=組織と見立てた「健康人」による「病院独裁」にある現状を、コロナ全体主義と言えるのではないだろうか。
 健康人は「自らの自由や生活を犠牲にしてでも新型コロナウイルスに感染しないこと」こそ至善と信じている。8割おじさんというポップな指導者のご託宣のもと、健康人は全体のために自ら進んで自由を放棄して自粛生活に没頭した。
 中には病院官僚組織の下級役人として、その心に憎悪と正義感を奇妙に同居させながら、自粛警察にはげみ、自粛慎重論者の摘発に取り組んだ者もいた。これぞ規範的人民の姿であり「健康英雄」として勲章授与にも値するということであろう。

 また、全体主義においては、至高の目的である組織のためであれば戦争でさえ許容される。コロナ全体主義では、新型コロナウイルスに感染しないためであれば戦争さえ許容される。現に独メルケル首相や仏マクロン大統領などの世界の指導者の弁では、我々は「第三次世界大戦」を戦っているのであった。
 であれば、コロナとの戦いのために個を犠牲にして「自粛戦」を戦うことは許容されるどころか英雄的健康人の理想である。逆に、コロナ戦争の「副次的被害」に過ぎない経済的被害や、それによる自殺を理由にして自粛を緩めることは、健康人には「敵前逃亡」に見えるだろう。
 さて、健康人はその内実の空虚さゆえに、英雄人と同じく社会に秩序をもたらさないだろう。さりとて今さら経済人を信じようにも、これはコロナ以前にゾンビ化している。2016年のブレグジットとトランプ大統領誕生は、経済人の嘘を再び大衆が知ってしまったことの象徴だった。我が国だけはまだ経済人に回帰したがっている様子だが、これは何度目かの「第二の敗戦」を前回よりも苦しい形で繰り返す運命の予兆である。
 「死に至る病」から逃れるためには、命よりも重要な高い人生の目標を戴き、実存者として主体的な生を真剣に生きなければならない。コロナを克服し、その先に秩序ある社会を回復するために、今こそ胆力ある思想とその実践が求められていると思う。私自身も、せめてその努力だけは諦めない人間でありたいと思うのだ。