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猿を憂う

吉田真澄(64歳、会社員、東京都)

 

 テレビをつければ、雛壇に座ったタレントたちがチンパンジーのように両手を大きく開き、大仰な拍手をしながら、大笑いしている。講師役のコメンテイターは、タレントからの質問に対して『良い質問ですね』などと応え、エヘンとばかり胸を張っている。公園を歩けば、NYヤンキースの帽子を被った爺さんとすれ違う。書店には、「未来志向」や「勝ち組」といった単語をタイトルに配した書籍が並んでいる。ITやメディア業界の知人たちは、シリコンバレー出身の創業者やプラットホーム企業に憧れを抱き、惜しみない賛辞を送っている。政界では、十九世紀の、北米大陸におけるアメリカの帝国主義的膨張政策であった西漸運動を正当化するためのスローガン「マニフェスト・デスティニー=明白な天命 J・オサリバン1845年」との関係性を顧慮した気配もなく、マニフェストなどという言葉が一人歩きし、何ひとつ天命を果たせぬまま消えていく。さらに最近では、ダボス会議への憧れか、与野党の政治家たちが「グレート・リセット」などという言葉を発見し、嬉しそうにしている。

 猿なのである。まるで進歩という檻に飼われ、アルファベットという餌に条件付けされた猿なのである。目触り、耳触りさえ良ければ、何でも口にしてしまうのである。いつも周囲の顔色を窺い、新しい輸入品を利用して誰かを一歩だけでも、少しだけでも出し抜けないかと、小さな計算を繰り返している猿なのである。そこには吟味も、咀嚼も、吸収も、考量も、呻吟も、熟成も、昇華も、体得も、固有の言語・時間感覚もない。過去から切り離され、明るい未来から脅かされ続ける、痩せ細った現在があるだけである。

 歴史や伝統という条件下では、決して優位性を表明できない覇権国が、そしてその短い歴史における行状に関しても、とうてい正統性を担保できないアメリカという国が、自らのコンプレックス克服のために次々と打ち出してくる時価主義的な価値観や施策になんの衒いもなく、平伏す猿である。そして今、究極の時価主義は正義が勝つではなく、勝った者(あるいは、現在、勝っている者)が正義!という倒錯の極北へと向かいつつある。さらに、正視に耐えない国史に気づき始めた国民たちは、歴史観という基準線(これも大切なクライテリオンの一つだ)を失い、浮遊したアイデンティティは、大きな偽善(例えば脱炭素社会)や小さな偽善(例えばLGBT)に救いを求め、暗い過去を忘れさせてくれるほど「進歩的な明日」を探して分裂と暴走を繰り返している。それは、まるでたくさんの小さな分断を縫い合わせたヴェールによって、最も大きな分断(経済格差)を覆い隠すかのように進行している。なのに、我が国の猿たちは、戦後、唯一持つことが許された短めの定規(「日本国憲法」と名付けられている)を取り出してきて、覇権国の混乱を推し測ろうとし、自ら大混乱に陥っている。なぜなら、その定規には人々の善意善行についての目盛りしか刻まれてなく、ある一線を越えた状況下における人間の邪悪さ、残忍さ、そして、不正や狂気について想像する手がかりが記されていないからである。当然、人々の心の中に、そのようなリスクに対する警戒心が芽生えるはずもない。

 私たちの歴史は、決して戦後に限ったものではない。情報が瞬時に世界を駆け巡る現在。ここは一つ、古書などを紐解き、少し時間を遡って自らの言語感覚を回復し、かの国の混乱ぶりを大局から論じるところからやり直してみるべきではないだろうか。「然もありなん」と。