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私の「うっせぇわ」論

松浦陽子(46歳、大学教員、宮城県)

 

 川端先生のメルマガを拝読し、youtubeで聴いてみた。
 この歌の主人公が社会人らしいことに、目が覚めた(高校生くらいの年齢かと思った)。
「優等生」として生きてきて、他者の評価以上に「健康」で、俗にいう「天才」である一個の人間の歌。心の奥底から湧き上がる「おやじ社会」(男の社会という趣旨ではなく、中年以上の小うるさい文化を持った男女によって構成される、若者視点からは「くせえ口」に代表されるちょっと汚さの混在した社会をイメージしている)への不平不満をぶちまける刹那的な歌である。

 この歌の、極端な音階と現代的な歌詞、一見粗削りに見える激しさを描いた映像から読み取ることのできる果てしない怒りは、全体として「嵌った」完成度を持つ。おそらくは優等生であることをごく小さな頃からしつけられ、自身でもそれを血肉化してきた結果、澱のように淀んだ鬱憤が、社会人になって、会社で、飲みにケーションで、爆発したような歌詞だと思う。

 気になるのは、「模範人間」って誰目線なんだろう、ということである。
 親や大人社会から言われるままに、優等生として生きてきたのか。そこに何か、目先の、あるいは中長期的な利益を感得していたのではないのか。良い大学に入り、良い就職先を得、高収入と、趣味に費やせる休日を得るような打算である。今までも「うっせぇわ」と思いつつ、それらを受け入れてきた人の歌なのではないのか。

 おそらく、「模範人間」である本人は、不満を直接相手にいわない。「言葉の銃口」は現実には相手に向けられない。だから、歌で、歌詞で、心で、叫ぶしかないんだとしたら、そしてそれに共感する若者たちが大勢いるとしたら。

 相手に言えたら、ゲームが始まる。「あいつを何とかしないと」と目くじら立てて教育しようと追いかけ回す教師役と、「うっせぇわ!自分でできるわ!(あるいは、自分でやれや!)」といって逃げ回る生徒役である。
 社会人だからそこまであからさまではないにしても、そういうやり取りは、面倒な人間関係の構築でもあるし、見ていて元気があるなあと思うし、案外、面白い。(生徒役が大人になって、ふとした瞬間に教師役が果たそうとしていた役割に気づく瞬間なんぞ、とても良い。教師役がすでにこの世にいなかったりしたら、とても切なくて良い。)

 けれど、その面倒をしなそうな、感じ。だから、歌で吠えるしかなさそうな、この感じ。この歌の激しさは、口に出せない分だけ、さらに強度を増したのではないかと思われる。

 この歌が叫ぶのは、単純かつ純粋な怒りである。それは「おやじ社会」へのアンチ・テーゼの体をなさない。
 本来、社会規範がおかしいならば、それをおかしいとする基準に従って自分たちの代でコツコツ新しい社会規範を創設すればよいのだが、その地道な遠回りは敬遠され、刹那的な「叫び」が重視される。
 しかし、自身が「模範人間」であるために、「おやじ社会」をぶっ壊すことができないし、するつもりも、(実は勇気も)ない。

 この単純かつ純粋な感情が、多くの若者に共感されるとしたら。
 我々大人文化を引き受けるものが、子どもを教育し、しつけてきた作法の誤りを直視しないとやっぱりまずいんじゃなかろうか。「優等生」であることに丸をつける教育ではなく、大人になる過程で、自身の人格を再構成できるような「遊び」のある教育である。その過程はたぶん成功と正しさと同じくらい、失敗と誤りに満ちたものになるが、そこで構築される他者との協力や前向きな人格や互いへの労り、人と激しいやり取りをする耐性や、未来に向かう回復力などは、それこそかけがえのないものになるだろうと思う。
 
 この歌は、刹那的不満爆発の徹底的肯定に終始している。
 「ほんと、うっせぇよな!」という同世代の共感。
 「じゃ、どうする?」「……」。

(おしまい)