兆しから表現へ

川北貴明(34才・芸術家・大阪府)

 

 保守思想とは何か。それは未だに議論されている。保守は「何を」保守すべきか。それもまた、なぜ「今」保守なのか。「今でしょ」って昔の流行語でしたね。「なぜ」今保守なのか。5回問うだけで分析出来たら楽なのに。

 そもそも保守とは明文化すべきなのか。あるいは明文化可能なのか。要するに思想化する必要があるのか。もちろんそれがあるのだから必要なのだろう。しかし、そもそも1789年に仏国で「大事件」がなければ、バークが『フランス革命の省察』を記すことは無かった。つまりそれまではその必要はなかったのである。文章として示されて初めて、保守は保守思想になったと言える。「保守の父」と呼ばれているのは伊達ではない。
 そうであるものの、1790年11月1日以前に「保守なもの」がなかったとはとても言えない。思想化はそれを明文化して保守思想とする必要に駆られる時代、つまり危ない時代=近代のためである。時代の要請なのである。生まれからして積極的でないのが保守らしさであろう。いずれにせよ上記の複数の問いへの答えとしては、「近代あるいはその正統後継の現代だからこそ、保守は思想によって表現されることが必要だ」がいいと思うのだがどうだろうか。邪魔だと言われるだけだろうか。

 では明文化以前のそれはどこにあったのか。それは人々の生活の中にあったと私は考えている。「一枚絵」で見せることなく知恵や常識としてそこにあったのだ。近代以降とは逆で、そのような人々が多数だったのである。たとえ古典とされなくとも生活空間に備わっていたのだ。
 ゆえに現代では、「思想の兆し」が含まれている古典を読むことが思想を掴む第一歩となってしまっている。保守の人々が古典を大事にしているのはそのためである。保守思想とは兆しから表現されたものである。もちろん表現するとは文字にすることだけではない。踊りや演劇、絵画に彫刻、音楽にも映画にもその兆しのある作品はある。しかし、最も単純なのは文字だけの表現であろう。まずはそこからである。
 例えばもっとも簡単に触れやすい古文漢文を不要という人及びそれらのファンは、全く保守ではないのである。まさか古文漢文が必要だという人を、変質者と呼ぶ人がいないと信じたい。ちなみに私は狂言が好きな変質者のようだが。

 保守から思想へ、オブジェからイマージュへ。そういう境界があるかどうか。「霞」のようなものなのか。
 私は保守という言葉を使わずに保守思想を表したい。いわゆる「左」と比較することなく、「右」だけを見て「正面」からそれを捉えたい。そして昔の人のように、生活空間にある「保守」をそのまま見つめたい。その方法も日本の「保守政党」や「保守政治」や、保守に対する複数の問いの答えを見出せる1つの在り方なのではないか。考えすぎか。『徒然草』読んで落ち着こうか。