表現以前

塚本嵐士(22歳・学生・東京都)

 

 いかんせん表現者ばかりの現代において、青年以上に青年的な彼らは、良き鑑賞者になるべく努めることを知らず、それ故に良き表現者にもなり得ていない。良き鑑賞者なるものは常々、ただ表現された「もの」を観るに留まらず、表現自体を観ているものだ。自ずからなった「もの」ではなく、自ずからなる「こと」の生じている「ところ」へ意識を向けたとき、表現ははじめて語り得ぬ手応えでもって、表現たりうるものなのである。

 さて、最も身近な表現とは何であるか。いうまでもなく、それは自己である。自己とはただここに惰性的延長として存在する「もの」ではない。常に誰かとの、何かとの、関係によって生み出される表現である。この自己に対する態度こそが、表現というものに対する現代人の態度を如実に表していると私は考えている。現代の鑑賞者が表現された「もの」をのみ観るということは、すでに表現された「自己」をのみ意識することに等しく、自己が自己であり続けることを当然のものとして疑わない、まさに現代人の態度といえる。彼らはいつ離散し、バラバラになるかも知れぬ不安の影を誤魔化して、絶えず生み出される一条の裂け目を絶えず統合し続けて止まない、いわば表現としての自己を全然蔑ろにしているのだ。そのために他者もまた、完成された他者、変化を伴わずに固定化された他者、人間としての他者ではなく社会的役割としての他者上でしか「解釈」することができないのである。

 がしかし、元来ひとつの表現たる自己や他者は、それ自身単独になるようなシロモノではなく、常にある身体とある身体との「あいだ」から分化したものであって、互いが自身を否定することによりはじめて規定されるというような、非自閉的かつ流動的なものである。だから本来相手というのは、自分によって規定されるもので、互いが己を虚しゅうすることにより、いよいよ互いが互いを認めて自分と相手とが確立される。とすれば、自己が自己であることを疑わず、相手もなにもかもただ肯定する態度は、むしろ相手を観ていないどころか、相手によって規定もされておらず、表現としての自己は不完全のまま、何者かが発露する帰結だけをもたらす。

 まず相手と対峙し、バラバラに解体される不安を抱えずして、統合への意志を意識することなど到底不可能であろう。のみならず、意志の自覚なくなされた発露、すなわち無機質な情報の発露は、確たる有機的、表現としての自己をも崩しかねない危険さえ孕んでいるのだ。表現としての自己から出立した言葉、絵画、音楽、その他あらゆる芸術でない限り、情報は異物として浮遊し続け、消化不良をも起こしかねない。

 良き表現は良き鑑賞から来る。良き鑑賞のためには、表現されたものの場に一歩を踏み出し、表現以前に立ち戻ってむしろ表現の側に立つべく努めなければならない。それは表現された他者に対して、己を虚しゅうして他者の側に立つことと同じである。この恐ろしく至極単純なことも、自閉的な自称表現者の蔓延る、相対主義的な世の中では難しいものだ。相対主義とは、世界が内的差異の自覚にビクつき、いまに分裂しようとする状態に他ならない。これは人間でいうところの思春期にあたる。二度目の思春期にぶつかった世界は、自らを繋ぎ止め、自己を確立するためにひたすら語り、記述するより救われる道はあるまい。そうしてその語り、記述というのは、鑑賞に耐えうる表現でなければ、内的差異、不一致は克服できず、相対主義は蔓延るままに、無秩序な世界は尚無秩序に加速度を大きくするだけであろう。合理や常識はそれを超えたところの何者かによって、関係としての言葉はそれを断ったところの神なり紙なる背景によって、自己はそれを否定したところの絶対的な他者によって、はじめて確立されるものであるように、表現もまた表現以前に立ち戻る鑑賞によって完成することを忘れてはならない。