今回は、『表現者クライテリオン』のバックナンバーを特別に公開いたします。
公開するのは、小幡敏先生の新連載「自衛官とは何者か」です。
第三回目の連載タイトルは「‟生きたい”と‟死にたくない” 我々の国は、私の国」。その第二編をお届けします。
〇第一編
『表現者クライテリオン』では、毎号、様々な連載を掲載しています。
ご興味ありましたら、ぜひ最新号とあわせて、本誌を手に取ってみてください。
以下内容です。
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そうは言っても、人間そう見限るのは早いのかもしれない。
彼らはだらしなくて、蒙昧で、俗悪だけれども、お節介なほど優しくて、鬱陶しいほど親切で、哀れなほど真面目である。
私の小さな人生を振り返れば、沢山の人に嫌われたり、少しの人に愛されたりしてきたが、それでも私はふつうの市井の人々を愛する。彼らと酒を飲み、騒いで笑うことほど私を喜ばせるものはない。
然るに、何故愛すべきあの者たちは、日本の一貫性と正統性から目を背け、この国の歴史を汚し続けるのか。何故一人では好ましい日本人は、集団になるとかくも愚かで醜悪なものとなるのか。
思うに、永遠の田舎者である日本人はその性質として政治に向いていないが、戦後その傾向を助長した原因の一端は、暴力排除と国民の共犯関係の中に求められる。
暴力は戦後、とりわけ昭和の終わり頃から急速に社会から取り除かれていった。
追放されたのはなにもヤクザだけではない、かつて家庭で、夜の街で看過された暴力は、弱者天国日本の強き弱者によって、いや、無粋なかたわ者たちによって扼されてしまった。それはまるで、醜女が美人をなじるような卑しさでもって。
そうして暴力という生の潤滑油、人間を抽象世界から具体生活へと呼び戻す重力を喪った社会は最早平衡を保ち得ない。
何故なら、暴力こそは愚かな人間が自らの生の自由を確保し、自らの生を自らの信じる生き方で、そうでしかあり得ないという落ち着きの中で歩むことを要求するための唯一の手段であり、武器であるのだから。
言ってしまえば民衆の内ほとんどは暴力という形、或いはそれを示唆することでしか政事に関与することも能わない。
教育により向上した全ての国民が議論を前提にした民主政治に参与できると強弁しようが、その事実は隠せず、所謂民主的先進国においても暴力的な大衆運動は日本より遥かによく見られるではないか。
それは民主主義の恥部などではない。民主主義がもともと持っている痘痕であり、それすらも去勢したがる日本は異常である※3。
いや、戦後日本人はむしろこの暴力排除によってこそ生き永らえているのだ。
我々は暴力を追放する代わりに建前上“賢く”ならなければならない。賢くなって暴力が担っていた機能を代替せねばならない。
だが、その一方で国民は、人が生きるために直視すべき醜悪さや、払わねばならない肉体的犠牲を免れることが出来た。
暴力とは社会のシステム化の中に窒息してしまう人間が、生きる以上避けられない“仕方なさ”に躓き、気付くための肉体からの使者に他ならない。
これを追放してしまったが故に我々は、生存努力の首座を占め、もっとも目障りだった軍事への正常な感性を失ってしまったのである。
つまるところ、暴力排除と国民の軍事からの逃亡は暗渠で通じていた。
だが、賢くなどなれない我々は、その取引で単に我々の生を衰弱させてしまったのである。そして自衛隊とはまさしく、この弱者たちによる癒着の中に産み落とされたみなしごであった。
これまで私は自衛隊の装備にも、集団的自衛権にも、安保法制にも触れずに自衛隊について書いてきた。
それで一体、今この時代の自衛隊を正しく認識したことになるのか。
その判断は読者に委ねるが、私は約五年間自衛隊に身を置き、この組織は決して戦えない、そう確信した。そしてその原因がこれまで書いてきたような点に求められると信じる。
然るに、何故こうしたことは語られないか。それは、そもそも自衛官による発言が禁制下にあることも勿論だが、何より、“自衛隊が戦えない”ということは語ってはならない事実だからであろう。
何故なら、観閲式や軍事パレードで各国が部隊の精強と装備の威力を誇示することが当然である様に、軍事組織は対外的にも対内的にも“強い”ことを示す動機付けが強烈に存在しているから。
だが、それがただ見せかけに終始しては元も子もない。
では、不甲斐ない自衛隊が悪いのか。否、もとはと言えばこの国と国民が現実の生存に対して極めて不誠実な態度をとってきたためである。
危機が高まれば高まるほど、その姿から目を背けてきたのだ。
奇形の憲法により如何に弊害が生じていようが、安全保障環境が如何に緊迫していようが、そんなことには構わず、むしろ危機に瀕しているからこそ憲法を守れ、平和外交を推進せよと、荒唐無稽な幻想に惑溺し、突き付けられた現実から逃げているのである。それはまるで、盆を過ぎても山と残る宿題を忘れるため、なお一層遊びに熱中する子どもの様に。
思えばこの姿勢は戦後一貫して維持されてきた。
昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫が市ヶ谷で自決したのを受けて各紙はこれを、
「過激思想に恐怖の念」(日経翌日朝刊)や「狂信的な右翼行動」(読売同日夕刊)
と報じ、佐藤首相は“気でも狂ったか”と述べ、社会党の議員は
「三島事件は、佐藤内閣の政治姿勢にその根源がある。このような狂信的な事件が起こるのは、政府の反動政策に原因がある」
と演説している。
或いは街角では、女英語教師が
「全体からみればナンセンスだし、世の中に変化はないでしょう」(毎日同日夕刊)
と冷淡に述べたかと思えば、OLが顔を手で覆いながら、
「彼がノーベル賞候補作家だなんて、裏切られたわ。日本はまだ野ばんな国だということを世界中に宣伝したみたいやなあ」(大阪翌日朝刊)
と言う。では一体、野蛮とは何なのか。
彼女はすぐ隣の紙面に載る、釣り禁止の大阪城外堀に跋扈する“図々しい太公望たち”についても同じく“野蛮”と言い、“日本の恥”と言うのだろうか。いやいや、あんたがたの様な素っ頓狂な粗忽者こそ日本の恥じゃないか。
一方で或る米国人の談は次の様に報じられている。すなわち、
「日本の軍国主義復活というよりも、大体、自衛隊を軍隊でないというのは外国から見れば偽善的なもので、その偽善打破の試み、あるいは主張としてみれば、それなりの意義を持っているといえる。
焼身自殺などと同様、強い精神力を必要とする切腹をともなった行動は、外国にはわからないことだ、といちがいに冷視するわけにもいかないものをもっている」(日経翌日朝刊)と。
日本人は一体何にそれほど怯えているのか。これでは報に接したばかりの米国人の反応にも遥かに劣る。
戦後日本の欺瞞と偽善とを糾明する三島たちなどより、凛とした顔つきで潔く縛についている様にしか見えない楯の会隊員を、
「“さあ、くくれ”と手をさしのべる隊員の眼はつりあがり、まさに狂気じみている」(大阪新聞翌日朝刊)
としか見られない者たちの方こそ医者に診せる必要があろう。
この種の態度は別段あの壮挙に特有の事情ではなく、今もなお変わりないのである…(続く)
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※3 鶴見俊輔はこれを、「これ以上侵害されたら革命を起すというのが民主主義でしょう。日本では革命は、共産主義にだけ縁がある。民主主義とは縁がないと思っている」(『戦後日本の思想』)と言った。
(『表現者クライテリオン』2021年1月号より)
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