今回は、『表現者クライテリオン』のバックナンバーを特別に公開いたします。
公開するのは、小幡敏先生の新連載「自衛官とは何者か」です。
第三回目の連載タイトルは「‟生きたい”と‟死にたくない” 我々の国は、私の国」。その第三編をお届けします。
〇第一編
〇第二編
『表現者クライテリオン』では、毎号、様々な連載を掲載しています。
ご興味ありましたら、ぜひ最新号とあわせて、本誌を手に取ってみてください。
以下内容です。
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思えば我々戦後日本人は、自身の連続性の始点を敗戦、そして米国由来の平和主義と民主主義の受容に置いた。
だが、連続性とは何か。
それは連続性そのものと言うべき“ことば”が示すように、我々にとって無窮のものであって、始点を求めることなど馬鹿げている。
無理に始点を設けてしまうのは、出生を自己の始点であると見做すが如き迷妄であり、自らみなしごとなることを選ぶようなものではないか。我々には常に自身に先立つ母が必要なのだ。
そうして半世紀が経った。自衛隊はあの時のままだ。
「自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされ」(三島による檄文、以下同)
ていないままだ。私には、
「自衛隊のどこからも、『自らを否定する憲法を守れ』といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた」。
「かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた」。
自衛官は“自ら起つ”ことを拒絶し、国民はそれを当然と考えた。まあいい、それはよかろう。だが、西独のファーレフェルト氏が言うように、
「自衛隊内部に存在する不満感は自衛隊のありかたそのものにあることからすれば、これをなんらかの形で解決するのが筋」(日経翌日朝刊)
であることを思えば、この歪な構造を“冷淡に”眺めてしまった自衛官、そして日本人は、いい加減にその落とし前を付けねばなるまい。
それが出来ぬ限り、自衛隊は断じて国民の軍隊とはならない。
そして国民の軍隊ではない自衛隊が、日本や日本人の為に命を懸ける勇敢さを備えることは決してないのである。
思えば我々は、健康とは無関係に寿命を延ばし、国際政治とは無関係に平和憲法にしがみつき、人の生活ともこの国の文化とも無関係に改革を断行することに躍起になってきた。
それらに共通するのは、死や、諸外国の脅威や、目の前の経済社会問題と向き合わず、その場しのぎの安逸を貪り、“生きる”ことから逃げてきたということである。
その結果として今の自衛隊がある。
然るに、私は幹部候補生学校に居た時分、高良登山走の時も、百キロ行軍の時も、沿道から声をかけてくれる“地方人”の声援が何よりもうれしかった。
水でもない、食事でもない、縁もゆかりもない人々の声援が私を走らせ、歩かせた。どれほどきつく辛い時も、偶に出くわす子どもが手を振り、敬礼の真似などをする姿があると、不思議と痛みや疲れは消え、顔はほころび、体が風におされるのを感じた。
見知らぬ誰某と家族のように和合するのを感じた。これが軍人の居所なんだ、納得するのは容易いことだったが、次の瞬間には、この連帯が国家規模では全くと言ってよいほど養われていないことに暗澹とした。
我々が真に国民と連帯した軍人であれば、いかに幸せであろう、いかに誇らしいであろう、そう思われて唇を噛んだ。
私は除隊して故郷に戻ってからというもの、古い記憶の残る場所、かつて通った学校や山林、公園などに自然と足が向く。
何がそうさせるのか。
そこで蘇えるのは、私が共に生きた人々の記憶である。
殴り合った友、分かり合えないクラスメイト、初めて好いた女、反目した教師、命を絶った畏友、今は亡き祖父、私の人生を彩った無数の人たちの顔、顔、顔……。私はきっと、国民との手触りを探し求めているのだと思う。
そして今でも私は、彼ら幼き日を共に生きた者たちの姿を、長じて他人として生きる者たち全員の内に見出す。伏目がちな郵便配達員に、居酒屋でくだをまくオヤジに、くたびれたレジ打ちの女に、私は共に生きたあの者たちの顔を重ねる。
私の国は、私が共に生きて来た者たちだけで出来ている。その意味で、私にとって我々の国とは、私の国ということでしかない。
だからこそ私は、近頃の街ゆく人が人間にすら見えないのだ。私の小学校に、私の生まれた街に、あんな生き物はいなかったのだから。
私の態度を、子ども染みた妄想だと、大人になり切れぬ甘えだと、そう言う人もあるだろう。確かにそうかもしれない。
だが、斯様な共同性への信頼がないところに戦う軍隊とは、一体如何様のものであるのか、私にはとても想像がつかないとだけは言っておこう。
畢竟、自衛隊と国民との間には、まさにこの連帯が決定的に不足している。そして更に深刻であることに、我々はこの連帯を支える手触り自体を社会から失いつつあり、言い換えれば、我々が共に日本人である、その足場さえ怪しくなっているのである。
思い起こせば、三島が自決した翌日、江藤淳は日経新聞紙上でこう言っている。
「私は、現在の『日本人が日本の運命をしっかり握れぬ時代』はなお続くと考えている。待ちきれぬ人はまだ今後も形を変えて過激な行動に出ることだろう。
待ちきれずに異常な行動に走るのは、一言でいえば、『普通の日本人との連帯』を信じ切れなくなった悲しい人たちである」
“日本人が日本の運命をしっかり握れぬ時代”、この言葉は今もなお続く我々の惨めな境遇を精確に表す。
だが、当時から半世紀を経てもなお変わらぬ状況に“待ちきれない”者を、果たして我々は“悲しい人”と呼ぶべきであろうか。
“普通の日本人との連帯”、いまやこれを信じることが如何に難しくなっているか。むしろ我々は無感動と無感覚が生んだ白痴の渦の中で、尊い民族的犠牲としての“悲しい人”を失ってしまったのではないか。
それを思えば我々の取るべき道は明らかだろう。我々日本人は、全国民に等しい生存努力の顕現であるはずの自衛隊を国軍の栄誉で包み、それを原動に国民の共同性を恢復させなければならない。
さすれば人は、“死にたくない”ではなく、“生きたい”に従って生きられる。
何故なら、国軍とは国民が生きるために犠牲を受け入れる意志そのものであるから。
そして我々は、これを足掛かりに再び共同性を暖め、文字通り奴隷であり続けた戦後に終わりを告げ、新たな生を生き始めることが出来るのではないか。
それは何も、軍事的な自立だけを意味するのではなく、日本人が戦後初めて、他の全ての生き物と同じく自らの運命と対峙し、格闘し、付き合い始めるということに他ならない。
そしてそのために求められるのは、貧乏でもいい、芋と呼ばれてもいい、死んだって構わない、それでも俺たち日本人は誰の風下にも立つものか、そういう覚悟と気概、ただそれだけではないだろうか。
(『表現者クライテリオン』2021年1月号より)
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