前回の記事(注1)で取り上げた映画『ファニーズ』(注2)の中で、多くの芸人たちが「沖縄の『お笑い』の本質が『対象を笑ったり、笑わせたりするのではなく、共に楽しむ(共感する)』ことであり、『日常の中に笑いを見出す』ところにある」という主旨のことを語っています。
戦後沖縄の「お笑い」の系譜を辿ってみると、芸人たちが語ってくれているように、沖縄の「お笑い」の本質がウチナーンチュ(沖縄人)の「日常」と「共感」にあることを感じ取ることができますが、それと同時に、その基層にはウチナーンチュの「悲しみ」や「憤り」が伏在しているということに気づかされます。
「沖縄のチャップリン」と呼ばれた小那覇舞天(注3)は、戦前、進学のために上京して露骨な沖縄差別を体験します。明治から昭和戦前期にかけて、多くのウチナーンチュが本土に出稼ぎに行きましたが、「琉球人お断り」といった貼り紙がされるなど就職や家探しなどの場面で差別を受けていたのです。
当時、大衆芸能の都である浅草は黄金時代を迎えており、路上では反骨の芸人が軍人や政治家を笑いのネタにして人気を集めていました。舞天は学業のかたわらで浅草に足繁く通い、歌や漫談のいろはを吸収します。
沖縄に帰った舞天は、嘉手納町で歯科医院を開業すると同時に、近所の芝居小屋や演芸場に出演するようになり、浅草で学んだモダンな話術をベースとした独自の沖縄漫談を披露し、アマチュア芸人であるにもかかわらず、沖縄中で知られる人気者となります。日本がナチス・ドイツと軍事同盟を結び、軍国主義やドイツ礼賛の風潮が色濃くなっても歌や漫談をやめることはなく、舞台上で、独裁者ヒットラーや威張り腐る帝国軍人を茶化すネタを披露するなど、我を忘れて侵略を繰り返す軍人の狂気を鋭く風刺し続けました(NHK『笑う沖縄 百年の物語』)。
戦争が終わると、舞天は弟子の照屋林助(てるりん)とともに、戦争によって打ちひしがれ、悲しみに暮れている人々の家々を訪ねて、こう説いて聞かせます。
「このようなときだからこそ命のお祝いをするんです。今度の戦争では、ほんとにたくさんの人々が亡くなりました。だから、命の助かった者たちがお祝いをして元気を出さないと、亡くなった人たちの魂も浮かばれません。四人に一人が死んだかもしれませんが、三人も生き残ったではありませんか。さあ、はなやかに命のお祝いをしましょう」(注4)
舞天と林助の2人は風刺を混ぜた歌を歌い、踊り、笑いを誘い、人々を勇気づけます。戦争で打ちのめされていたウチナーンチュたちは、舞天を受け入れました。苦しい生活の中で、生きる喜びを求めていたのです。
林助は「ブーテン先生と一緒に歌をうたったり、踊りをおどったりしていると、最初のうちは、悲しんでいたり不機嫌だったりした人たちの表情も、次第に晴れてくるのでした。ほんとのところ、『生き残った者には、明るく生きていく義務があるのだ』と、鈍感な私にもひしひしと感じられる場面があったのでした」「沖縄には、いまも昔も、命のお祝いの歌が数えきれないほどあって、ことあるごとにうたわれています。スージーグヮーセー(お祝いごっこ)と同じで、人々は、命のお祝いの歌をうたうことによって、よりよい明日がやってくるように願っているのです」と記しています(注5)。
舞台「お笑い米軍基地」を主宰する小波津正光は、インタビューに答えて「(人間は)辛いことだけでは生きていけないのですよね。(人々が舞天を)受け入れたというのは、自分たちも笑い、楽しく歌って踊りたいという気持ちがあったのだと思います。みんなどこかに抜け道を探していたのだと。お笑い芸人としては、どうしようもない状況、マイナスの状況であればあるほど、悲しいことがあればあるほど、俺たちは笑いを作っていけるということだったのだと思います」と語っています(NHK『笑う沖縄 百年の物語』)。
舞天は弟子の林助に「『貧乏人が金持ちを笑う』『庶民が政治家を笑う』『戦争に負けた者が勝った者を笑う』…そんな笑いを作りなさい」と言い聞かせていました(注6)。
「てるりん」の愛称で親しまれた照屋林助(注8)は、小那覇舞天の芸と志を受け継ぎます。
1950年に朝鮮戦争が勃発、翌年には日本はサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結して国際社会への復帰を果たすも、沖縄は日本本土から切り離されます。沖縄の統治権はアメリカに委ねられ、アメリカは住民から強制的に土地を取り上げて基地を拡張していきます。1955年には「由美子ちゃん事件」(注9)が起こり、沖縄は深い悲しみと憤りに包まれます。この年、軍の発表だけでも400件を超える犯罪が米兵によって引き起こされましたが、そのほとんどが住民の泣き寝入りに終わっています。
後に「沖縄最大のエンターテイナー」と称される「てるりん」こと照屋林助が世に現れたのは、このような米軍支配の時代のことです。デビューをしたのは米軍基地の門前町として栄えたコザの街であり、街中にアメリカの音楽があふれていました。コザで楽器店を始めた林助は、エレキ三線を自作するなど革新的な手法を編み出します。
1956年には、沖縄の人気歌手・前川守康と共に歌謡漫談スタイルのユニット「ワタブーショー」(「ワタブー」は「大きな腹」=デブを意味する)を旗揚げします。当初は映画上映の合間の余興に過ぎませんでしたが、たちまち映画以上の評判を呼び、「ワタブーショー」目当てのファンが増えていきます。1958年には、現在のRBC(琉球放送)ラジオで沖縄初のウチナーンチュによるお笑いのシリーズ番組としてスタートしました。
林助は多くの演目を創作しましたが、「ワタブーショー」で大ヒットしたのは、沖縄芝居の名作「伊江島ハンドー小(グワ)」をベースとした「珍版ハンドー小物語」です。
当時は沖縄芝居の全盛期であり、琉球王国を舞台にした「ハンドー小」の悲劇は良く知られていました。原作は「村の女のハンドー小が金持ちの若い男に騙され、男を追いかけて伊江島に渡るのですが、男には妻子がいて、絶望したハンドー小が美しい黒髪で自らの首を絞めて命を絶ってしまう」という悲劇の物語です。林助は物語を大胆に作り変え、同時代の沖縄を描きます。当時の伊江島はおよそ半分の土地が軍用地として米軍に奪われており、家も耕す土地もなく、人々はテント生活を強いられ、飢えに苦しんでいました。ハンドー小は、男が軍用地料として得た金を持ち逃げしてコザへと逃亡します。ハンドー小に騙されて捨てられた男は川に身を投げようとしますが、そこに金を使い切ってしまったハンドー小が現れ、2人は元の鞘に納まります。
林助は「珍版ハンドー小物語」について「原作は男に振られたハンドー小が悲しみのあまり自殺するという悲劇でございますが、ワタブー版では『絶対死なないハンドー小』として、あの恐ろしい戦火の中を生き延びたウチナーンチュの心意気や、我ら島人のヌチヂューサ(命の強さ)を称えたものでございます」と語っています(『てるりん自伝』)。
林助が「ワタブーショー」で人気を博していたのは、ベトナム戦争が激化していた頃のことです。大型爆撃機B52が嘉手納基地からベトナムに向けて出撃し、毒ガスも沖縄に持ち込まれていました。明日をも知れぬアメリカ兵たちは、コザの街で酒と麻薬に溺れ、乱闘や強姦は日常茶飯事となり、酔っ払った米兵による轢き逃げ事件も続発します。
ウチナーンチュの我慢は既に限界を超えていました。
1970年12月20日未明、米兵の車が道路を横断中の男性をひっかけて怪我を負わせる事故が発生し、現場で事故処理を行うМP(憲兵)を群衆が取り囲みます。当時、糸満市で酒気帯び運転かつスピード違反で歩道に乗り上げて主婦を轢殺した米兵が軍法会議で無罪となり、抗議の県民大会が開かれるなど米軍への反感が高まっていました。現場では「犯罪者を逃がすな」と叫んで騒然となり、МPが空中に向けて威嚇射撃をしたことをきっかけに人々の怒りが爆発します。市民たちはアメリカ兵の車ばかり70台余りに火をつけ、暴動は夜明けまで続きました。
いわゆる「コザ暴動」(注10)です。
このとき、林助はコザの街で1人デモ行進をします。彼が掲げたプラカードには「迷子」と書かれていました。「大国の思惑に振り回された挙句、いつも置き去りにされる沖縄。唐(中国)の世から、大和(本土)の世、アメリカの世へと流れ、再び大和の世へ。沖縄は迷子になったままでいいのか」と問いかけたのです(注11)。
1972年5月15日、日本政府主催の沖縄復帰記念式典が東京(日本武道館)と沖縄(那覇市民会館)の両会場で同時開催され、屋良朝苗沖縄県知事は式典挨拶と記者会見で「沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります」「本土並みと言っても、主要基地はほとんどそのまま残り、県民の切実なる要望が反映されておりません。私は基地の形式的な『本土並み』には不満を表明せざるを得ません」と述べています(注12)。
本土復帰後も沖縄では米軍基地との縁が切れない日々が続きます。
沖縄への基地の集中が急速に進み、日本政府は、基地を維持することを最優先とし、軍用地代が大幅に引き上げられ、軍用地が売買や投機の対象となり、軍用地を巡る親族間の争いが続発し、沖縄社会は引き裂かれます。
米軍統治時代にドル経済の下に置かれた沖縄では製造業が育たず、いわゆる「基地依存型輸入経済」が形成されました。働く場所が限られ、給料が高いのは基地内での仕事であり、多くのウチナーンチュが米軍基地に反対しながらも、そこで働くことを余儀なくされていたのです。本土復帰の前年にはニクソン・ショックが起こり、復帰の際にはドルの価値が急激に下落する中で「ドルから円への通貨交換」が行われることとなり、沖縄経済は大きな打撃を受けることになりました。
本土復帰の際に制定された沖縄振興開発特別措置法に基づく「沖縄振興開発計画」では「本土との格差是正」を目標として掲げて「(日本本土に)追いつき追い越せ」というキャッチアップ型の経済振興を進めますが、沖縄の自然的条件を無視した(本土と同一の)画一的な開発手法によって貴重な自然資源が破壊されていきます。
沖縄の日本復帰記念事業として国家主導で開催された「沖縄海洋博覧会」(1975年)は、その経済効果によって本土との格差を一気に縮めることが期待されていましたが、大規模工事の大部分が県外企業によって受注されることとなり、土地の買い占めによる地価や物価の上昇が発生し、「海洋博」による経済効果は限定的かつ一時的なものにとどまりました。海洋博終了後には、観光客を見込んで作られたホテルや土産品店などの倒産が相次ぎ、「海洋博不況」とも呼ばれる長い不況に苦しむことになります。
林助は、本土復帰以降も米軍統治下の時代と変わらず、日本政府やアメリカの都合によって翻弄される沖縄の世情を「むる判らん」「軍用地主の歌」「生き返り節」「どるどるどん」などといった歌にして風刺しました。
林助は「ヌチヂューサ(命の強さ)」を称え、「弱き者を励まし、強き者を風刺する」という舞天の「笑い」の精神を継承していました。舞天や林助の笑いの背後には、近代以降、常に日本やアメリカといった大国の都合に翻弄され、「日本人になりたくても、日本人になり切れない」一方で、「ウチナーンチュとしての誇りにも揺らぎが生じ、ウチナーンチュであることにコンプレックスを抱いてしまう」というようなアイデンティティの危機にさらされ続けてきたウチナーンチュの「悲しみ」と「憤り」の歴史があります。
ウチナーンチュが待ち望んだ本土復帰が実現した後も、沖縄が抱えた「悲しみ」が癒されることはなく、ウチナーンチュにとって苦難の時が続きます。
本土復帰に向けて本土との同化政策が急速に進められ、沖縄の精神や文化は時代遅れと看做されるようになります。多くのウチナーンチュの中に「沖縄は経済的にも文化的にも(他の都道府県と比べて)遅れている」「ウチナーグチをはじめとする沖縄文化は恥ずかしいものだ」という「沖縄コンプレックス」が蔓延するようになっていました。
林助が「ウチナーグチ(沖縄の方言)もウチナー(沖縄)の歌も、綱引きもエイサーも、沖縄のものは全て駄目という主張は、一見勇ましくもありますから、そういう人の口調に憧れる若者も出てくるわけです。そうして、その若者も、いつしか口移しのように同じことをしゃべるようになるのです」(注13)と危惧していた通り、沖縄文化に深刻な危機が訪れたのです。
《「お笑いの島」沖縄について考える(3)へ続く》
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(注1)【藤原昌樹】「お笑いの島」沖縄について考える(1)ー映画『ファニーズ』を手がかりにして | 表現者クライテリオン (the-criterion.jp)
(注2)映画 ファニーズ – 笑い継ぐ沖縄コメディアン – (funnys-movie.info)
(注3)小那覇舞天 – Wikipedia
小那覇舞天(1897年~1969年)。沖縄のチャップリンと呼ばれた戦後沖縄お笑いの偉人。もともとは歯科医師であったが戦後復興時、落ち込んだウチナンチュ(沖縄人)を励まそうと各家々をまわって歌と踊りを披露したのは有名な話。風刺の効いた歌詞での音楽漫談も芸の特徴でその芸風は弟子の照屋林助にも受け継がれていく。収容所時代に演芸大会を開催したり女性民謡ユニットを企画したりとプロデューサーとしての手腕も発揮して戦争で途絶えた沖縄芸能の立て直しに大きく貢献した(映画『ファニーズ』パンフレットより)。
(注4)~(注6)照屋林助著、北中正和編集『てるりん自伝』みすず書房、1998年
(注7)『てるりん自伝』及びNHK制作『笑う沖縄 百年の物語』(2011年)
笑う沖縄 百年の物語 | NHKティーチャーズ・ライブラリー
笑う沖縄 100年の物語 お笑い米軍基地 – 動画 Dailymotion
(注8)照屋林助 – Wikipedia
照屋林助(1929年~2005年)。「てるりん」の愛称で親しまれた音楽漫談家。小那覇舞天とは師匠と弟子の間柄でその芸に強い影響を受ける。のちに前川守康とのユニット「ワタブーショー」を結成しその存在感とともに人気を博す。彼の提唱するまぜこぜ精神「チャンプラリズム」も広く伝わり浸透した。その芸風は沖縄芸能に多大な影響を与え、いまの沖縄芸能の独自性にも繋がっている。息子にりんけんバンドの照屋林賢がいる(映画『ファニーズ』パンフレットより)。1990年には沖縄市で「コザ独立国」の建国を宣言し、自身も「終身大統領」を名乗り、東アジアやアメリカの文化をチャンプルー(「ごちゃ混ぜにする」の意味の方言)した「チャンプラリズム」を打ち出し、新たな沖縄芸能・文化の方向性を模索していきました。
(注10)コザ暴動 – Wikipedia及び1970年12月20日 コザ反米騒動 – 沖縄県公文書館 (pref.okinawa.jp)
(注11)『笑う沖縄 百年の物語』
(注12)1972年5月15日 沖縄県知事として沖縄復帰記念式典へーあの日の屋良主席ー – 沖縄県公文書館 (pref.okinawa.jp)
(注13)『笑う沖縄 百年の物語』
(藤原昌樹)
〈編集部より〉
「お笑いの島」沖縄について考える(3)は11/10に配信予定です。
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