【書評】魂の故郷へ帰る 五十八歳の雨宿り/橋場真由

啓文社(編集用)

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絲山秋子 著『末裔』河出書房新社/2023年9月刊

 

 ある晩、男が仕事から帰宅すると、自宅の鍵穴が消えていた。鍵は手元にあるが、その差し口が見つからないのである。ドアを開けられず、家から閉め出された男は、雨宿りができる軒下を求めて新宿をさまようことになった。本書は、芥川賞作家の絲山秋子がおくる、中年男性の再出発を描いた冒険譚である。
 主人公の富井省三は五十八歳。まもなく定年を迎える役所勤めの公務員である。省三は、三年前に妻を亡くし、二人の子どもが家を出ていくと、世田谷の戸建に独り住まいとなった。
 世田谷の家は、昭和三十年代に省三の父が奮発して建てたものである。学者だった父は、五十代半ばで亡くなった。事故死だった。一方、母は認知症を患い、施設暮らし。息子は結婚して独立し、娘は妻の一周忌が済むと、メモを置いて家を出て行った。残されたのは、一人の男やもめと、父母の物、子どもたちの物、妻の遺品が放置され、半ばゴミ屋敷と化したこの一軒家のみである。やがて誰に頼ることも、頼られることもなくなった省三の生活は、ますますみじめなものとなった。
 こんにち核家族化がすすむ日本社会では、主人公のように「老後は一人暮らし」という家庭も少なくない。まさに、富井省三は現代日本人の肖像としてその暮らしぶりが描かれている。
 帰るところを失い、新宿界隈を徘徊していた省三は、謎の占い師・乙に声をかけられる。省三は、乙のホテルに匿ってもらうと、「俺は家に入って一体何がしたいのか」という気分になった。今さら帰宅したところで、自分の帰りを待つ人はいない。定年後、あの広い部屋で膨大な時間をもてあます未来を考えれば、憂鬱にもなった。省三には趣味も、やりたいことも、欲しい物もほとんどないのである。ただ、自宅にこもって思い出と戯れる時、彼は「自分と向き合う」時間を忘れることができた。むろん、このような現実逃避の仕方は病的であると、省三は知っていた。
 認知症の母は、歴史を失くした人だった。母の記憶はてんでばらばらで、ときに娘時代に遡る。時間から解放された省三の母は、家族のことも自分自身のことも忘れて、自由になった。
 その後、占い師の助言で東京を離れた省三は、鎌倉の伯父の家を目指した。以降、鎌倉で過ごす日々は、省三が自分のルーツを探す旅として描かれる。「子孫が絶えた家があっても、先祖がいない家はない」。彼は自分の先祖について思い馳せるとき、郷愁とともに、自らがこの家の「末裔」なのだと自覚した。
 ひとたび自身の原点へ立ち返り、自分とは何だろうと俯瞰してみれば、自分とはまず父母が残した結果である。さらに祖父母、曾祖父母と遡れば、末裔とは、先祖が残した数々の選択の末の「結論」ではないだろうか。この途方もない先祖たちの生に比べれば、末端の私たちはちっぽけなものである。が、無限に増えていく先祖の数だけ、私が生まれた理由がある。それが末裔という存在なのだろう。


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