特定の分野の識者や同好の仲間うちではよく知られていても、世間一般には殆ど無名という人物は多い。ノーベル賞受賞者がいい例で、ひとたび受賞が発表された途端に世界的な有名人になるが、それまで街では群衆の一人に過ぎず、すれ違っても誰も注目していない。
一部で知られていただけの人物で、1200年経った21世紀の現在では世界中の何処でも毎日耳にするようになった名前がある。彼のフルネームは「アブー・ジャファル・ムハンマド・イブン・ムーサ―・アル=フワーリズミー」という。本人の名がムハンマドで、ジャファルの父、ムーサ―の息子であることを示している(ムーサ―はモーセのこと)。アルは定冠詞で、フワ―リズムという中央アジアの一地方の出身の一族であることを意味する。彼が生まれたとき、一族はバクダッド付近に住んでいた。いま、私たちは毎日どこかで彼の名を聞き、画面や活字でその名を見ている。その名がラテン語風に訛った「アルゴリズム (algorithm)」である。
アル=フワーリズミーはバグダッドの優れた数学者だった。生没年ははっきりしていない。生まれたのは西暦800年よりも前で、没年は847年より後だとわかっているだけである。彼は、バクダッドの学問の拠点「知恵の館」に集められた一流の学者たちと共に、ギリシャやヒンドゥーの哲学・数学・天文などの古典書物を翻訳し、それらのアラビア語版を作成していたという。
彼の残した著作の中でも重要なのは『復元と対置による算法についての簡約な書』と呼ばれるものである。西洋世界にこの書物が伝わったとき、単に、原題の「復元」(または「補完」「回復」)を意味する「アルジャブル al-jabr」がラテン語訛りの『アルゲブラalgebra』となって、書名になった。
「アルジャブル」は等式の両辺に同じ項を足したり引いたりして「つり合いをとる」ことを意味し、6種類の標準的方程式の形(1つの一次方程式と5種の二次方程式)を特定した。(現代の表記では、この6つはすべて「ax²+bx+c=0」と一般化できるが、当時は負の数の存在や係数に0を使うことを認識していなかったため場合分けをしている。)書物の中では、この概念を、土地の測量や運河の建設などの実際の事業に関する計算や、相続、贈与、訴訟、出資、商取引などの生活に必要な計算の例題を取り上げて、その手法を説明している。対象が土地の面積でも金銭でも、定型の方程式を利用することで同じ方法で計算ができるのである。
これが「代数」の始まりである。この本は、遅くとも1143年頃にはラテン語に訳されていたと思われるが、1145年にイギリス・チェスターのロバートと、イタリア・クレモナのゲラルドによってアラビア語からラテン語に翻訳されたものが西洋世界に広まった。
アル=フワーリズミーは、ヒンドゥー圏で使われていた「数」についての本『ヒンドゥー流の数え方について』(または『インド数字による計算』)も書いた。この書物は、1から9までの数字と0という記号を使って、どんな正の数でも表してしまうというもので、位取りを用いて簡単な整数の四則演算の方法を論じている。位取りのない漢字圏で数の表記には、一、十、百、千、万、億、兆といった数を表わす文字が必要で、大きな数になると「無量大数」でごまかすことになる(10の68乗ともいわれるが)。これは西洋世界でも同様で、ローマ数字のC, X, V, Iなどでは非常に大きな数の表記は難しかった。
それまでの計算は、複雑な計算盤を用いていたが、これは中国の算盤よりも使いにくいものだったし、十二進法も計算を面倒にした。それが、ヒンドゥーの数え方の位取りを導入することによって、1~9という数字と0という記号の10個の数記号を用いれば、大きな数でも正確に表記できるようになり、筆記による計算ができるようになったのだ。ヒンドゥー(インド)の数字は、アル=フワーリズミーのアラビア語の書によってラテン語世界に伝わったため、西洋世界では「アラビア数字」と呼ばれた。
『アルゲブラ』と『ヒンドゥー流の数え方について』の他に、12世紀にアラビアから西洋に伝わった書物には、エウクレイデス(ユークリッド)の『原論』がある。この3冊は、後の西洋数学に特別に大きな影響を与えた。しかし、西洋数学の基礎になったとはいえ、その影響は実にゆっくりと進行した。特にゼロ0を理解するのは難しく、ラテン語訳が出てから16~17世紀ころまでにかけての長い時間を要した。記数法の切り替えは混乱を招いて、ローマ数字とアラビア数字を混ぜたり、従来の書き方と位取りが混在したりする表記もあった。ある祭壇画に記された「MCCCC4XVII」というシリアルナンバーのような記載は、どうやら1447年のことらしい。
0はラテン語でcifraと言われ、秘伝の謎めいた書体のように受け止められた。英語のencipher(暗号化する)decipher(解読する)のcipherは、0が中世では秘密めいた魔術的な記号だったことに由来する。「存在しない」ことを「示す」という「矛盾」には哲学的な理解が必要で、インド哲学と西洋哲学の出会いでもあった。
人間は論理的である反面、メタファーやアナロジーを好むもので、ときには、数にも意味を感じてしまう。日本では4や9が嫌われるが、中国では4と9は縁起のいい数である。西洋では7が好まれ13や666が嫌がられる。中世世界では数にまつわる魔術的な迷信が渦巻いていて、世間一般がそこから脱皮するには長い長い時間を必要とした。(いや、現代でもSNSなどで、オカルト的な数字はまだ生き残っているようであるが…。)
アラビア数字と演算法、およびその表記法は数学を大きく進展させた。「代数は算術を一般化したもの」であり、身近な個々のケースの計算術から、抽象化された思想へと移行したのである。大抵の人は、小学校で習う「つるかめ算、植木算、旅人算、流水算」などの面倒な計算に悩まされた覚えがあるだろう。しかし、代数では、記号が意味する内容はとりあえず無視したため、記号の操作に集中することができるようになった。数とは、文字通り量を表わす記号であって、「いかなる性質も帯びていない」。数字は抽象化された。
占星術は、この抽象性と神秘性やオカルト的なものがごっちゃになっているが、当時の人々にとっては先端科学であった。しかし、アルゴリズムは論理性だけを採用して、数字や演算の認識が劇的に変化した。対象物の性質や特性を無視して数量化することで、方程式で計算ができるようになった。このような変化は、数学の世界だけでなく、社会全体をそれまでとは異なったものに導いた。
15世紀に「オッカムの剃刀」が注目され始めたのは、『アルゲブラ』の「とりあえず数字以外の付属物は考慮から外す」という考え方の延長である。問題になる要素が何であるかを見極めたら、それ以外の性質や価値は、結果が出るまでひとまず無視する。ものごとの始めに、まず、何が問題の本質であるかを熟考しなくてはならないということだ。
アル=フワーリズミーは数式を使っていない。この時代にはまだ数式はなかった。古代ギリシャでもアラビアでもローマ時代でも中世の西洋でも、計算や数学的説明はすべて自然言語の文章で書かれていた。筆書きの和算の書が読みにくいのと同じで、何が書いてあるのか一瞥してすぐにはわからない。以前、古典ギリシャ語の授業でエウクレイデス『原論』にある「三平方の定理」を初心者用のテキストで読まされたことがある。テキストには三角形の図が載っていたが、原書にはない。何について書かれているかが予めわかっていなかったら、あまりにややこしい言い回しで、永遠に理解できなかったと思う。
(古典ギリシャ語テキストにある『原論』三平方定理についての説明:原書は文章のみ、大文字のみ)
記数法や演算の表記法の統一が進んだのは、印刷革命による。印刷技術によって、自然言語については俗語聖書の出版を通してラテン語という共通語から民族や地域の多言語化に向かったが、数量に関する表記は統一の方向に進んだ。16世紀から17世紀にかけて、多くの数学者の試行錯誤や、商取引や帳簿上の記号などが積み重ねられ取捨選択されて、演算に必要な記号が次第に整えられた。「+」という記号は、1489年にドイツで印刷された書物に初めて登場した。倉庫係が在庫品の大きさや重量の過不足を示すために、梱包や木箱にチョークで記したマークが起源だと言われている。イタリアでは「+」はp、「-」はmで表されていた。後に、筆記記号には「+-」が採用され、pとmは読み方に残っている(plus/minus)。
計算するに当たって、対象が均質であることが要求され、単位という考え方が生まれる。計算するには、時間にも空間にも単位が必要で、それまで連続体だった時も空間も分割されていく。単位を用いて測定し、計算することで、世界の様相は「神」の時代とまったく異なるものになっていった。
神の時代には、ただ存在しているだけだったものも、「測る」ことで別の意味をもつようになった。時や空間は均等な単位に分割された。機械時計が作られ歯車の回転が時を分割し、正確な地図や海図や天文図が測定によって作られた。地図や海図の作成では、その目的によって異なる図面を受け入れた。球面を二次元で表す以上、何らかの要素が犠牲にされる。航海上の必要から生まれたメルカトル図法は、緯線と経線の比例関係を決定し、目的地までの航路を直線で表せるようにしたものである。そのために実像を甚だしく歪め、極地に近づくほど面積が大きくなる。ロシアやグリーンランドやカナダが、実際の面積よりも大きな印象を持ってしまうのはメルカトル図法の地図を見慣れているせいである。特化した目的のために、他の要素を切り捨てるのは、アルゴリズムの手法である。
絵画や音楽も変化した。比例による遠近法は、対象が何であっても同じ方法で作図できた。音の意味や音色は考えずに、弦の振動の比例でオクターブを測り、音階を記述する方法が発案されて、ポリフォニーの複雑な音楽でも再現できるようになった。売買できるもの、商取引ができるものは、すべて価値を数量化することで価格を設定した。負債による利子は借用期間に応じて算出され、時間にも価格がつけられた。奉仕や労働も、金銭で代替できるようになった。モノもサービスも時間も数量化することで互換性のある計算が可能になり、ほとんどのものに価格が設定された。
アルゴリズムは文明を加速させた。世の中が複雑になるに従って、計算しなくてはならないことが増えた。考慮すべき条件が増え、複数のトレードオフの条件をどのように収めるか、最適設計が必要になった。計算できる共通項以外で無視されたものは、対象の「性質」や「属性」や「意味」である。すべてのものを数値に置き換えて「計算」するが、そこから得られた最適解には、性質や属性や意味が排除されている。アルゴリズムで得られた最適解は効率や収益に反映するが、人間に満足感や幸福感を与えるものとは限らず、また、人間を生物的に進化させるものでもない。
生物にとって最適化の達成は現環境での完成品であることを意味し、その後の環境変化への適応力を失う。常に変化する環境条件の下で絶滅を回避するために、生物は最適化されないように進化してきた。塩基の配列はしょっちゅうミスを犯す。病気や怪我や精神の不調や死は完璧でないことを意味する。どこかに曖昧で未完な部分を残すことで起こる「ゆらぎ」によって、頻繁に遺伝情報の変化が起こり、うまく適応したものが生き残る。生物にとっては、最適化されずに未完成品のままであることが絶滅しないための必要条件であるようだ。
人類は、飛躍的に進化している生成A Iの最適解を求めるアルゴリズムに対抗することができるだろうか。アルゴリズムは文明を進化させた。しかし、複雑な感性・感情・欲望・嗜好・価値観を持つ曖昧な生きものである人間に適用するときも属性は排除され、その人間は「データ上の個体」として扱われる。「何者でもない個体」の最適化とは、何のための最適化だろう。
A I が、光合成(エネルギー取得・変換)と代謝(部品交換・自己修復能力)を獲得したとしたら、自己保存の欲求や、そのために人間をコントロールすることをプログラミングするのだろうか。アルゴリズムが文明の強い味方であったのは、人間が「利用するもの」だったからである。どんどんヒトの深層領域にまで入り込んでくるようになったアルゴリズムは、いつか私たちの「敵」になるのだろうか。
『歴史の中の数学』マイケル・S・マホーニィ著 佐々木力訳 /ちくま学芸文庫 2007
『数学を生んだ父母たち』(数学を切りひらいた人々1)マイケル・ブラッドリー著 松浦俊輔訳 /青土社 2009
『ギリシア語入門』新装版 田中美知太郎 松平千秋 著 /岩波書店 2012
橋本由美
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