ブルースというクライテリオン

谷川岳士(36歳,会社役員,大阪府)

 

 私は革新派であると自覚します。新しいもの好きで、スマホは生活必需品、細々としたデジタルガジェットも大好です。音楽に関してもオーソドックスなものよりも革新的なもの、なかんずくジャズを好みます。今でこそ古臭い音楽だと思われがちですが、ジャズとは革新的な音楽であり、その中でもマイルス・デイビスは格別です。彼のキャリアはジャズの革新の歴史そのもので、ビバップからクール、ハードバップ、モードと発展させ、ロックやファンク要素の取り込み、電子楽器の積極的な採用、クロスオーバーからフュージョンに至り、晩年にはポップスやヒップホップまで。その時代のトレンドを貪欲に吸収しながら、同時に彼の革新性がそれぞれの時代のジャズを牽引し象徴しました。そうして1940年代から1990年代まで、魅力的な作品が多数残されています。常に最前線であり続けた、そんなマイルスのジャズに惹かれます。

 しかしジャズにはその革新性と同時に常に「ブルース」の内在を問われ続けます。どんな先進的な理論に基づく演奏も、どれほどテクニックの素晴らしいフレーズも、そこにブルースがなければ、例えばマイルス曰く「so what?」と斬り捨てられます。理屈や技術ではなく魂にブルースがなければジャズたりえません。敢えて言ってしまえば一見とんでもない演奏でもブルースさえあれば全て良しとさえいえます。

 ブルースはアメリカに奴隷として連れてこられた黒人たちが、毎日の「kind of blue」な感情を歌い上げたものが起源と言われます。過酷な労働や日々の苦悩、その中で見出す日常の些細な喜び、その感性と感情に基づくのがブルースです。ジャズは革新そのものでありながら、同時にそこには必ずそのブルースという、革新とは程遠い、泥臭くて生々しくて代わり映えせず、非理論的で直感や感性に根ざすコアを持つ音楽であり続けていました。そんな両面性を持つジャズに私は強く惹かれます。

 創刊号で柴山先生は「生活における保守的な心性に適切な表現を与えることは、進歩主義へと傾斜していく現代人の精神が平衡感覚を取り戻すのに不可欠である」(p.64)、あるいはバークを引用し「偏見(先入見)や道徳感情と結びつけることで、抽象的な観念を血の通ったものとした」(p.65)と書かれています。すなわち、ブルースがジャズへと革新する際、ともすれば空虚なものとなりかねない危険性を帯びるジャズが、ブルースという血が通うことによって「音楽」であり続けた事と共通するのだろうと考えます。

 これは革新と保守とが一つの形を成す有り様の一例ではないでしょうか。reform to conserveあるいは保守に基づく改革(reform on conservativeness)、保革は対立し矛盾する概念ではなく、ジャズが革新するコアにブルースがあり続けたように、革新していく、あるいは革新せざるを得ない社会のコアに保守があり続ける、そう言えるのではないでしょうか。

 終わらないデフレ、突き付けられる核兵器、戦犯国という汚名、隷属の屈辱。この国が空虚なのは、憂鬱なブルーから目をそらし続ける以上当然の話でしかなく、ジャズという革新がブルースを求めるように、革新するこの世もブルースというクライテリオンへ至るべきなのだと思います。とあるジャズのスタンダードナンバーではこう歌われます。

 You don’t know what love is
 Until you’ve learned the meaning of the blues
 Until you’ve loved a love you’ve had to lose

 どう足掻こうとも必ず手からこぼれ落ちるブルースを愛さずにはいられない、その愛なくして革新もジャズもありえない、と歌うのだと思います。