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仕分けして語れ

馬場慎一郎

 

経済学にふれた時以来、私の気にかかってきた幾つかの概念がある。合成の誤謬・ミクロとマクロ、原子論的人間観批判…これらに共通する観点は、人間とその集団は異なる層の累積、組合せから成り、各層で通用すべき価値、法則、行動原理は異なるというものだ。

経済に限らず、時々の課題に対する種々の言動に接する時、私が感じがちな違和感はこの観点の欠如に起因するようだ。そして、それは、技術的誤りというより現代人の考え方の性向によるのかもしれない。

(例一)
米国大統領が不法移民への厳正な処置を主張し、欧州では、大量の移民流入に関し賛否が別れる。旧来のマスメディア、左派、グローバリストあたりが、移民制限は多様性社会の否定であり、差別を助長し、排除の論理は社会を不健全にすると非難する。その際、「多様性」という言葉は、異なる背景を持つ個人が、同一空間に共存する状態をさす。想像してみよう。自分の隣人は碧眼のキリスト教徒、向かいにはモスレムが住み、その横にチャイニーズが、そのまた横にはヒスパニックと黒人が住んでいる、この状況は、あの町でもこの町でも同じである。さて、これは一様性の実現ではないか。

(例二)
政治の役割は「国民の生命と財産を守る」ことだとされる。この場合の生命とは、あの彼やその彼女の生命維持のことか。かけがえ無い命などと唱えて、人は反戦、反核運動を行うが、生物界では、種の保存が個体の存続以上に追及される。
また、財産とは、私やあなたの預金や資産のことか。それとも文化、伝統、生活の型のことか、領土や経済的権益のことか。
政治と警備会社の役割は同じなのか。

(例三)
ある言論人の講演会が、会場管理者や主催者に反対勢力からの圧力があり中止された。あるいは、社論と異なる見解を表明した故に、雑誌・新聞への掲載を断られた。機会を失った言論人は「言論弾圧」「表現の自由への侵害」といった言葉に拠って抗議する。身柄を拘束されたわけでも、暴力を受けたわけでもないのに、弾圧とは大袈裟、抗議が表明できる以上、表現の自由は保たれている。よほどの権力に妨害されぬ限り、表現の自由を云々する前に、さっさと自由に表現してみせることだ。  
生身の責任ある一人の人間として対処すべき時に、集団的(政治的)理念など不要。むしろ、それは言葉の堕落を招く故に有害、他力を頼むかのようで卑怯でさえある。

夜間に騒ぐ迷惑な隣人は、人権侵害しているわけではない…高圧的上司にはパワハラなどと唱えず喧嘩を挑め…財政・金融政策を慎ましき我が所帯になぞらえるな…

個人レベルの発想を直接に集団の実践に適用したり、個人レベルの欲求を、集団的理念で正当化するという発想が横行している。大衆は、自らの感覚による判断を「素直に」社会の事象に適用することが「民主的」で正しいと思う。ポリティカルコレクトネスに関わる表現にその典型が多い。現憲法第13条に、「全て国民は個人として尊重される」とあるからには、多くの論調がこうなるのは当然の成行きか。

公私混同するな
個人や集団の多様性による軋轢に折合いを付け、より大きな集団を組織するという課題への歴史的解答こそ、社会の型であり文化である。その解答は、個人性と集団性の重視の度合い、要素間の秩序の形などをめぐって多様である。この「文化」は、おおむね国家として束ねられている。
この文化の維持と異文化間の調和もしくは争いが政治の対象であり、異邦人の葛藤や、私やあなたの財産、彼や彼女の命のことは文学の課題である。
人間が人間である所以は、言語に典型的にみられるように歴史的集団性にある。「個人」は集団を離れては抽象的概念にすぎぬ。
全ての議論は、それが私(個人レベル)のものか公(集団・国家レベル)のものかを仕分けして為されねば生産的でない。
「一人ひとりを大切にする政治」という選挙用標語があるが、政治に文学を持ち込むことは災厄の元である。